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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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熟柿庵だより、第79号の原稿、頑張って書いているのですが
なかなかまとまりません。 今回は 歎異抄の第7章、 「念仏は無碍の一道なり」のところを自分なりに書こうとしています。 勉強会でも、同じところをやっています。 念仏者というものは 人生、どんなことになっても 安らかな心をもって生きていける という意味です。私の人生を妨げるものはひとつもない。 私の人生は私を悩ませることでいつも一杯です。 それなのに 親鸞さんは、悩ませることは消えはしないけれど 妨げることないのですと、断言している。 その極めつけの言葉として 良寛さんの手紙を引用されている。 「災難に逢う時節には逢うがよろしく候 死ぬる時節には死ぬるがよろしく候 これ、災難をのがるる妙法にて候」 この手紙 とても一筋縄では読めない文章です。 こんなこと だれが、承服できるでしょう。 でも、 自分の頑固な物差しをはずしたら すっと理解できるのかもしれません。 いま、 そのことをお便りに書こうとしています。
by jyukushian
| 2010-04-14 22:51
| WEB版 熟柿庵だより
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Comments(4)
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志水龍雄
at 2010-04-20 16:07
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ふと、このブログを拝見して書き込んでみました。
今朝、正信偈の後、御文no11を読んで、お念仏を唱え、南無阿弥陀仏を繰り返しておりましたら、 ほんの少しだけ信仰の兆しを感じたような面持になりました。 日頃は御釈迦様の教えの理屈ばかりが先走り、上座部の・大乗のと、気に病んでおりましたが、 お念仏による信仰がほんの少しだけ感じられたように思えたのは 私が年を取った所為でしょうか。 五戒八戒斎もまま成らない生活なのに都合の良すぎますね。 一心に思う気持ちに中々なれないでおります。困ったもんです。
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jyukushian at 2010-04-20 23:06
志水龍雄様
はじめまして、コメントありがとうございます。 ようやく熟柿庵たよりが完成いたしました。 今回は 賜った命ということをキイワードにまとめてみました。 私物化している私の命と賜った私の命、その対比のなかでおたよりを書いてみました。 所詮、言語表現ですから大したことはないのですが、 私の命は賜ったものであるということを 深く深く思っていくと いろんな思いに遊べます。 仏教は私の頑固な考えを緩やかにしてくれます。 お念仏については 本当はまだよくわかっていないのですl ごめんなさい
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志水龍雄
at 2010-04-28 00:13
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追先だって義理の親族の葬儀に参列をしてきました。その葬儀は日蓮宗による葬儀でした。元より私は祖父の代から浄土真宗のお寺さんにお世話になっている家ですが、和尚様が読まれるお経は、賑やかに拍子木を叩き、御数珠の磨る音も賑々しく何妙法蓮華経の御題目も陽気に御旅立ちを送られました。
私などは日頃どれ程の信仰心が有るのでしょうか。葬儀の時には亡くなった故人を想い偲んで、神妙に・しめやかに仏事を行います。その様な気持ちを常の日頃から持って暮らしているのかなと。 仏様を祀る生活の中に合って、仏壇を構えて、死後の世界に想いを馳せて、でも本当にそんな世界は有るのかと想い、習慣という生活に納まっています。でも死と向合うと殊勝な気持ちになるのですね。お釈迦様は生き方を教えて下さっていますよね。少々勝手が過ぎますね。 仏教と言れる色々な宗派の精神は全て同じ世界に繋がると信じてる私には仏様は生き方を教えて下さる教えなので、御釈迦様こそが拠り処なんだと少しだけ思う事ができ様に為りました。
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jyukushian at 2010-04-28 19:32
お身内のお葬式に立ち会われたのですね。いろんなことを思われたことと拝察いたします。
私も、仕事柄、何度もお葬式に立ちあっておりますけれど、 人の死ということが未だによくわかっていないのです。 ただ、親鸞さんは、ご自分が亡くなったときは 鴨川にでも流してくれればいいよと おっしゃっています。 肴の餌にでもなればいいと。 どんな死に方をしようと 浄土という世界に返っていくことだけは確かなのだと いうことです。 そんなふうに言い切れる生き方がしたいものだと 思います。 また コメント、お待ちしております。
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