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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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昔、メルロ・ポンティか誰かの本に
「今、見ている机の前の光景から目を離して 後ろの光景を見ると、さっきまで見ていた机の光景は存在しなくなるのです」 といったことが書いてあった。 不思議な文で、当時はどうしても納得できなかった。 だって目をさっきの光景に戻してやればちゃんと机はまた元のままに存在しているではないか。 と思ったからでした。 だけど、今はその意味がわかるような気がします。 私の目が物を見ているときだけ、目の前のものは存在しているのです。 テレビでときどき映し出される太陽系の風景。 これはもちろんコンピューターグラフィックで作りだされたものだけれど 太陽系の遠くのどこかに人間の視点をおいていると仮定して 描き出された世界です。 その視点に基づいて、それぞれの惑星の距離を測り 人間の目にはこのように写るはずだということで 描き出された世界です。 つまり、人間の視点が必ずどこかに決められて そこを起点にして風景が作りだされるのです。 しかし、人間の視点というのはとても人工的なもので、 外界に視点というものは存在しない。 視点がなければ そのものの大きさや距離といったものは存在しなくなる。 大きさの存在しない物体など存在しうるでしょうか。 すべては、人間の目を視点としてそこから発せられる パースペクティブによってものの存在が成立すると考えられるのです。 すなわち、視点が外界の存在を作りだすということになります。 大学院のゼミの授業を聞きながら、そんなことを考えてみました。
by jyukushian
| 2014-06-03 19:18
| WEB版 熟柿庵だより
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Comments(2)
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by
tom.us
at 2014-06-12 18:15
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私は物理学科を50年前に卒業したおじいです。そんな私でも、宇宙は本当に存在するのか疑問に思うことがたびたび有ります。太陽系の大きさや銀河等の大きさは人間の脳の中での計算で計っているようなものです。人間(生物)は五感で物を感じています。五感でそれらを感ずることは出来ません。
計測器を使い、計算し、それらを計っています。そして、ほとんどの科学者はそれを信じています。科学の歴史をさかのぼってみると、最初は極く一部の科学者が提唱したことはことごとく反論されてきています。しかし、時間とともに、それらが科学者の常識に成ります。 存在ということを素粒子論から見て行くと限りなく小さく細分化された素粒子にたどり着き、それが究極の素粒子と言われます。しかし、またそれより小さな素粒子が発見(これも間接的に)されます。視点を大宇宙に転ずるとアインシュタインを中心とする空間論(場の理論)と成ります。ところが空間論と素粒子の世界の整合が取れないのです。 一体、存在とは何なのでしょう?
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by
jyukushian at 2014-06-17 18:22
tom.u さんコメントありがとうございます。物理学を学ばれた方でも、いや学ばれたからこそ、存在ということに疑問を感じられるのでしょうか。それにしてもうれしいコメントです。興味深いコメントです。
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