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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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浄土真宗というのは在家仏教ですから
僧侶もなるべく親しみのある存在でありたいと思うのです。 冗談も言えばおどけたりもするし、くだけた話しぶりになったりもします。 少なくとも偉そぶった態度にはなりたくないと思っています。 世間の人たちとのあいだに、なるべく溝をつくらない。 私自身、そういうことを信条として世間の人や檀家さんと接してきました。 在家仏教の教えも 僧侶の立場を特別な存在として考えず、ただ お経を唱えるときのリーダーとしての存在であるという考えです。 ですから厳しい修行をしたり、僧侶だけに特別な徳が備わっているといった 考えはないのです。 先日、甥が熟柿庵に遊びにきました。 そこで前述のことが話題になりました。 甥が言うには 「お坊さんはやっぱり特別な存在であって欲しいのです。 おじさんのことをよく知っている人なら、ああ、ザックバランで親しい感じの人だからということでそういう人柄のおぼうさんなんだとして納得してもらえるけれど、初対面の人が、おじさんの僧侶としての態度を見たら、何て思うでしょうか。 やっぱりお坊さんは、普通の人じゃないんだ、私たちとは違う生活や考えをもっている存在なんだと思いたいのです。だからあまり親しげであってもいけないんじゃないでしょうか。 例えば、目の前に芸能人や文化人など有名な人がいると緊張するでしょ、相手が特別な存在だと、いい意味の緊張感が生まれて、気分も高揚したりするでしょ。お坊さんも、世界は違うけど、そういう存在であってほしいと思うのです。 例えば、人が古寺名刹に行ったりするのは、普段の日常とは違う気分を味わいたいからでしょ、なにか清らかな気分を味わいたいからでしょ。お寺もお坊さんも一般の私たちとは違う存在であってほしいのです。」 とのことでした なるほど、、、 僧侶やお寺はそんなふうに思われているのか わからなくもないけど 確かに、僧侶がお葬式や法事でほんの小一時間お経をあげて何万円、何十万円もお布施をいただくのは、とりもなおさず僧侶が特別な存在であると見られているからこそなわけです。 だけど 私は甥がイメージしているような僧侶になろうと考えたことはない。 そういう演出をしようなどと考えたこともないです。 なぜか? ちょっと疲れたので 次回につづく、、、 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします
by jyukushian
| 2008-07-19 19:46
| WEB版 熟柿庵だより
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