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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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あなたと私の間がつながっているのがわかりますか。
もしあなたが、そこに存在していなければ、 私はここには存在していません。 これは確かなことです。 もしそのことが理解できないのなら もっともっと深く見つめてください。 きっと理解できるはずです。 前にも言いましたが、これは哲学などではありません。 選択の余地の無い真実なのです。 あなたは必ずや頷くにちがいありません。 私は葉に尋ねました。 「あなたは秋に、他の葉がどんどん落ちていくのを見て怖くはないのですか」と。 葉は答えました 「いいえ、少しも怖くはありません。私は春と夏の間じゅう、 とても生き生きしていました。 私は一生懸命働き、木が育つのを助けてきました。 今、私の命の多くの部分は木の中にあります。 どうか私の姿を誤解しないでください。 私の真実の姿は、枯れかかったこの葉だけではないのです。 葉の姿など、私の命のほんの一部に過ぎません。 私の命は木すべてなのです。 私は自分の命がすでに木の中にあり、また一方、 私が土に帰ると、再びそこで木を養い続ける命であることをしっています。 だから 私は怖がったり、心配したりなど少しもしてはいません。 私が木を去り、地上に舞い落ちる時 私は木を揺り動かし、木に語りかけるのです。 「すぐにまたお会いしましょう」と。」 突然、私は般若心経に述べられている智慧と非常に似かよったものを ここに見るおもいがしました。 (終わりなき)命を見つめなければなりません。 葉の命というべきではないのです。 ただ葉の時代の命、木の時代の命として語るべきなのです。 私の命は、ただ一時期の命に過ぎないのです。 あなたは私の命を、私の中に見ることもあれば、木の中に見ることもあるのです。 その日、公園には風が吹いていました。 しばらくして その葉が枝を離れ、 地面に落ちるのを見ました。 そして それは楽しそうに踊っているようでもありました。 なぜなら、その木の葉は、空中を舞い落ちるその時、 自らがすでに木の中にあることを見抜いていたからです。 それはとても幸せな光景でした。 私はその葉に向かって静かに礼拝をしました。 その葉は私に多くのことを教えてくれたのです。 その葉は、枯れて大地に落ちていくことを少しも恐れてはいないということ。 その葉は、 何ものも生まれず、消滅することもないということを、 身をもって知っているのだということ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 命の連続性ということを これほど詩情豊かに語ってくれている本を 私は他に知らない。 経典というのは たとえ話を多用して命について語ってるけれど この物語は たとえ話ではなく、目には見えない命の真実の姿を リアルに語ってくれている ティック・ナット・ハン氏にイメージの豊かさを あらためて思う。
by jyukushian
| 2008-10-28 00:51
| ティック・ナット・ハン氏
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Comments(5)
彼の此の話は、現代科学を学ぶ者にとっても納得できる、ある意味で当然の事を言っています。「これは哲学では無く~真実なのです。」というときの「哲学」とは、どう考えるか、どう解釈するか、といった心の問題ではないと、私は考えています。多くの宗教者が唯心論にこだわり、がんじがらめになって居る様に思われるのに、このようにリアルに語れる人が居ることに、驚くとともに此の本を翻訳した武田さんも良い仕事をしているなと、感心しています。彼の話は唯物論そのものなのですから。でもこういうと、褒められたうれしさも半減?ですか?それではまた。
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at 2008-10-29 00:56
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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jyukushian at 2008-10-29 14:13
今宵の月さん
この物語を語られた後に、いちばん大切な問題はこの物語を科学的な真実として客観的に受け取るだけで終わるのか、それとも本文にあるように「礼拝」して受け取るのかということにあると思います。礼拝して受け取るところに、哲学ではなく、私自身の救いの教えとしての宗教というものがあるのだろうと思います。 頭ではなく、心で受けとめること、これがキーポイントであるように思います。
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jyukushian at 2008-10-29 14:20
ななぽぽ さん
初めまして コメントありがとうございます。 拙僧のブログ、読んでいただいているとの由、 こういうコメントはとても励みになります。 頑張って続けていきます。 よろしくお願いします。 「理解のこころ」は ようやく半分ぐらいのところまで来ました。 後半もご期待くださいね
お返事有難う。私にとって頭=心だと考えています。「科学的な真実として客観的に受け」止めることは、今を生きる人にとってとても大切なことなのです。真実を見抜く眼を育てることなく、心の儘に生きる人の何と多いことか。勿論ここでいう心とは武田さんのいう「心」と違うことは明らかに同じではありません。貴方のいう心とは、より純化され、思惟のはてに溢れ出た心を指すのだと思います。しかしそれも頭脳がなければ、それを感じることさえ出来ないのです。だから現世では、我々は救い難い煩悩具足の凡夫なのです。
あなたはお勤めの時には南無阿弥陀仏と唱えることはしても、なんにつけてもなんまんだ、とはまだ自分は言えないと、以前ブログにかいていましたね。私はそういう貴方が好きです。自己を飾らない心優しい人に出会えて幸せです。 話はかわりますが、昨日病院へ行きました。ほんとにお医者さんて、CPばかりみていますね。患者の顔を診るよりCPの情報に時間をかけているみたいです。挙句の果て、患者に知らせるべき事実を忘れたりして・・ お医者さんってものすごく忙しいんでしょうね。そうとしか考えられません。
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