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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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第4章 空に感謝しよう
《シャーリプトラよ 全ての物質的現象(色)は実体を持たない〔空)。実体がないからこそ物質的現象としてある。物質的現象は実体をもたないということと何らかわるものではない。実在しないということは物質的現象そのものである。 これと同様に、物質的現象を受け取る感覚作用〔受)も、感覚作用を経て心の中で像として描かれる作用(想)も、そうした作用をもたらす力(行)も、最後にその表象を認識する作用〔識)もすべて実体を持たないのである》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・ 物質的現象、すなわち色は、海にできる波と考え、また一方、実体が無いということ、すなわち空は、海の本体の水であるとイメージすると理解しやすいかもしれません。 インド人は相手を脅すような口ぶりで話をします。だからインド人を本当に理解しようと思えば、その表現方法を知らなくてはなりません。 あるいはまた、西洋では丸の記号はゼロ、無を表します。しかしインドでは丸は総体、全存在を表すのです。同じ丸という記号でありながら、見方によって全く反対の意味をもってしまうのです。 要するに 「色即是空 空即是色」(物体は存在せず、存在しないことが物体そのものである)とは 「波は水であり、水は波である」と同じ理屈なのです。 「色は空と異ならず、空もまた色と異ならない。受、想、行、識についても同様の関係が成り立つ」 なぜならこれら五蘊は互いが互いを含みこんでいるからです。つまり、ある一つのものが存在するゆえに、他のすべてが存在しうるということです。 十二世紀のリー王朝時代、ベトナム文学の中にある禅師によってつくられた二行の詩があります。 「もしそれあれば ゆえに一片の塵あり もしそれあらずば ゆえに全宇宙は存在せず」 この詩の意味するところは ものが存在する、あるいは存在しないという概念は、ただ人間の心に依っているということです。 彼はまた次のようにも語っています。 「全宇宙は髪の毛の先端にすら乗りうる 太陽や月はからし菜の中にすら見られる」 彼のこうした詩のなかには、 一部は全部を包摂し、全部はすなわち一部である、という想いが流れています。 現代の科学は次のような真実を認めつつあります。 すなわち、物質とエネルギーだけが同一のものであるのではなく、 物質と空間もまた同一、一体の関係にあること、 さらに 物質と空間が一つのものであるだけでなく 物質、空間、そして心までもが一体のもの、一つのものであるというのです。 何故なら心は物質、空間の中にあるからです。 「理解のこころ」より ~~~~~~ ~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~ 色、すなわちこの世に存在するもの、物質、人間、様々に眼に見えるもの全てを海の上にできる波と考え、 空、すなわちそれらの眼に見えるもの全ては本当は存在しないということを 海にできる波に対する海本体の水と例えること。 この例えは空と色を考える上でとても大きな参考となる。 仏教のさまざまな論書でもよく使われる例えである。 波は消えては現れ、それは架空の存在でしかない、 本体はあくまで海の水に過ぎない。それが仮に変化したものに過ぎない。 海の水もまた風がたてば波の姿に変化する。 海と波の関係性について、より深く考えておきたい。 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします #
by jyukushian
| 2008-05-22 14:21
| ティック・ナット・ハン氏
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風さえ薫るという若葉の季節に
井上さんはついに還浄(逝去)されました。 5月11日の午前9時20分、逝去。 意識が無くなって二日目でした。 ほぼ二ヶ月の闘病生活でした。 私が病院に着いたときには すでに霊安室に移されていました。 生活保護を受けておられたので 葬儀をせず、私を含めて5人でささやかに見送りました。 お骨になった井上さんを小さなアパートのご自宅につれて帰り あらためてお経を唱えました。 僕は今日、 どこかの場面で自分が泣き崩れるのではないかと心配していたのですが 思いのほか 淡々と事態がすすんでくれました。 彼女とはほぼ10年のお付き合いでした。 私には 仕事を支えてくれていた二人の大切な人がいました。 井上さんと木村君です。 3人寄るといつも この中でいちばん最後に残るのは井上さんだね などと冗談交じりで言い合っていました。 それ程に井上さんは元気な方でした。 一昨年、木村君が突然死し、 井上さんと私の二人が彼を見送り、 そして 今回、その井上さんが亡くなってしまったのです。 今はまだそんなに強く感じてはいませんが 一人取り残された想いが 次第に増してくるだろうと思っています。 生きていく意欲がまた少し減退したような。 次回の《熟柿庵だより》71号には 井上さん追悼の文を精一杯書こうと思っています。 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします #
by jyukushian
| 2008-05-13 20:15
| WEB版 熟柿庵だより
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井上さんは
見舞いに行くたびに衰弱しているのがはっきりとわかる。 話もできないくらいに声を出す力もなくなっている。 昨日は 頬がこけて、それに少し痙攣が始まっていた。 もう点滴もはずされてた。食事もとらない。 時おり 氷を小さく砕いたのを口に含むだけ。 鼻の酸素管も邪魔っけだと言って拒否したようだ。 時おり 上体を自力で起こして氷を自分で取ろうとする。 掛け布団を自分でうごかそうとする。 その体力に担当医も驚いている。 大正生まれの女性の体力のすごさ。 それに彼女は満州生まれで、 上の姉二人は日本式に育てられたとのことで早死にしたため 井上さん自身は中国式に育てられたとのこと。 本場の大陸育ち。 白血病という血液の癌で入院したのだけれど 彼女の死因はおそらく衰弱死になるのではないかと思える。 僕は黙ってそばにいて じっと井上さんを見守るだけしかできない。 静かに死を受け入れようとしている井上さんの肉体に なんとも表現しがたい緊張感というものを感じる。 口をしっかりとへの字に結んで 死を受け入れようとしている井上さんの姿に 頭が下がる。 僕は今、何か大切なものを井上さんから学んでいるような気がする。 井上さんのそうした姿を見続けていられることが 僕を励ましているように思える。 僕は励まされているように感じる。 担当医に 「死ぬ二日前に個室に移してくださいね」などと 無茶な注文を出して お医者さんを困らせて 個室に移ってもう10日以上経ってしまった。 だけど もう死はすぐ近くまで来ている 井上さん あと少しですよ 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします #
by jyukushian
| 2008-05-09 18:58
| WEB版 熟柿庵だより
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モルヒネを投与されているのに
井上さんの意識は相変わらずしっかりしている それだけに そばにいると よけいに辛くなる。 「もう何にも話したくない もう誰の話も聞きたくない 早く死にたい 武田さん もう帰っていいよ もう見舞いに来なくていいよ 私の好きにさせてね 」 耐えられない痛みを訴えているわけではない 呼吸の苦しさもそれほどではなさそう。 井上さんの辛さは 精神で支えきれなくなった肉体をもって生きていることの辛さ。 生きていくエネルギーを全く失ったのに それでも生きていなければならない という辛さとでも表現すればいいのか ベッドの柵につかまりながら必死に耐えて死を待っている姿を見ながら そんなふうに思った。 僕は井上さんに言われるままに病院をあとにした。 いつものように手を握って 「また 来ますね」 とだけ挨拶をして。 なにか無力感を感じる。 僧侶として何にも出来ない無力感。 先日のコメントくださった方への返事にも書いたけれど 僕は今まで、お葬式の時 お葬式の前に、故人が生きているときに できればお会いしたかったと思うことが時々あった。 生きているうちに、少しでも仏教の話をして 人が死んでいくことの意味について語り合いたかったと 思うことがあった。 死んでいくことを 少しでも受け入れられる心が生まれてくれて 静かに自らの死を受けとめてくれればいいな そのための仏教でもあるんだから と思っていた。 仏教というのは そういう力を持っているはずだとも思っていた。 そのことに 自分自身のもっている仏教的な説得力というものに 失望した。 仏教にというよりも 仏教の表現できる言葉というものに そして 私自身に失望した 人は私を慰めてくれる 「井上さんは武田さんが見舞いに来てくれたことに とても救われたと思うよ 武田さんに感謝の言葉も言ってくれたじゃない。 井上さんは、武田さんにこの世で言い残したことを みんな話してくれたじゃない。」 だけど そのことと私が僧侶であるということと 一体どういう関係があるというのか。 私は自分が僧侶であろうとなかろうと ちゃんと自分なりに見送ってあげようとはおもっていた。 それは僧侶であると言うこととは関係のない話である。 十年間世話してきてもらった人間の普通の情からくるものである。 私が僧侶として生きているということは 井上さんにとって何の意味も持ってはいない。 そのことに私自身が失望しているのだ。 辛そうに死と向かい合っている井上さんを見ながら そんなことを考えていた。 人間の生死や命の真実を学ぶのが僧侶である、という意味において 私は僧侶である資格がない 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします #
by jyukushian
| 2008-05-05 22:15
| WEB版 熟柿庵だより
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井上さん
体調はどうですか 生き地獄だよ まだ生きてなきゃいけないの? 少しして眼を閉じた 寝ているわけではなさそう ただ辛さを我慢しているだけみたい 寝返った時に干からびた足のももが見えて 少し撫でてあげた もう話す体力もなさそうに見えた 氷が欲しいというので 細かく砕いて口にいれてあげた そういえば 井上さん、栄養はどうしているのだろう 点滴はしていない。 食事も出されていない これでは餓死するのを待っているみたい あ~あ 人生の後半 お金の苦労ばかりしてきたような気がする はやく けりをつけてほしいよ 辛いの? 辛い。 ほんとはさ、 4月ちゅうに頭がボーっとしてきて 意識が無くなって静かに死ねるって思って お医者さんにも そう頼んでおいたのに。 看護婦さん、 井上さんにモルヒネは投与されてるんですか はい されてます 井上さん モルヒネが井上さんの体力に負けちゃってるんだよ 頭を麻痺させてくれないんだよ モルヒネも井上さんの体力に おじけづいているのかもしれないね 井上さんは 今も正常な意識を維持させながら 死と向かい合っている。 ほとけ様 もうそろそろお迎えに来てくださいませんか 井上さんは もう充分に自分の死と向かい合ってきました。 もう充分だと思います 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします #
by jyukushian
| 2008-05-03 00:41
| WEB版 熟柿庵だより
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