カテゴリ
以前の記事
2024年 03月 2024年 02月 2023年 12月 2023年 09月 2023年 07月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 10月 2022年 09月 more... ライフログ
著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
その他のジャンル
|
次の文節では、互いに依存しあう12の作用(縁起)についてのべてあります。
12の作用、すなわち12の縁起とは、無知(真実の智恵を見につけていない=無明)に始まり 最後は老死に至るものです。 ここでも般若心経は、 12縁起のすべてはそれぞれ独立しては存在しないということを述べています。 ひとつの縁起は他の縁起があって初めて一つの縁起たりえるということです。 それゆえ 縁起はすべて空なのです。 空であるがゆえに存在しているのです。 この教えに従ってつぎの四つの崇高な真理が導かれてきます。 苦しみは存在しない 苦しみの原因も存在しない 苦しみが消滅することもない 苦しみを消滅させる方法もない そして最後に ものごとを本当に理解するということもなければ 悟るということもないと述べています。 ものごとを本当に理解するということ(般若)は仏の真髄です。 その真髄すら存在しないということは どういうことでしょうか・ それは 本当の理解、般若とはそれ以外の様々な要素(煩悩、我執など)によって 成り立っているということです。 仏は実は仏以外のもの(煩悩をもった私たち)によって成り立っているということです。 ~~~~~~~~~~~~~ 昔、私は私の先生に質問したことがあります 仏教の求めている悟りの世界と言うのは たとえば 植物のあり方をいうのではないでしょうか。 彼らは、自分の感情を持たず、ただひたすら ひたむきに生きています。 煩悩というものも、自分が、自分が、人より自分が生きねば という意識もありません。 私たちがめざしているのは、まるで植物の生き方のようです 仏教がめざしているのは 人間が植物のように生きることではないですか そんなふうに、先生に質問したことがあります。 先生は 私たちは植物ではありません。人間なんです。 煩悩も、自我意識もある人間なんです。 植物には、仏教は必要ないんです。 私たち人間にこそ、人間の為に仏教はあるのです。 そうおっしゃいます。 煩悩があるから、仏教の教えは成立するということなのでしょう。 煩悩がない生き物にとっては仏教は必要ないものということです。 仏教が仏教としてありうるのは 煩悩が存在する場所においてのみということなのでしょう。 私の悩みをなくして、それとは別に、どこか別の世界に 悟りが存在するというのは間違った考えなのかもしれません。 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします
by jyukushian
| 2009-04-29 23:43
| ティック・ナット・ハン氏
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||