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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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よく言われる
過去の自分を振り返れと。 これはよくよく考えると不可能なことである。 日常ではこのことは普段よくやっていて 別に不可能ではないと私たちは思っている。 しかし 厳密に考えれば根本的に不可能である。 たとえば 20代のころ、あんなふうに考えていた、こんなふうに考えていたと言う。 しかし これは、今の私が、頭のなかで過去を想定して、そうだったのではないかと 今の思考回路で考えているわけです。 つまり 今の考えのベースから離れているわけではない。 本当に過去の自分の考え方を思い出すには 過去の私のその時の脳を取り付けて 今の私の脳をはずさなければならない。 こうすれば過去の自分のものの考え方に戻れる。 しかし そうしたら、今の私の考えは亡くなってしまうわけで 要するに 一つの脳で二つの考えのベースを持つことは不可能であるということだと想います。 なぜこんなことを考えたかと言いますと 仏教の考えはこれに近いのではないかと思ったからです。 かつて デカルトが 「我思う、故に我あり」といいました。 その基本から私たちは本来的に放れられないのではないかと思うのです。 仏教は 我執にとらわれた人間のものの考えそのものをを否定します。 これは人間にできる技なのでしょうか 私が私の考えを否定すること。 考え方ではありません。 考えそのもの、考える基盤、 それを否定するということです。 何故なら 考えるということは取りも直さず 私自身を認め、許容することからしか始まらないからです。 親鸞聖人は 我執を否定するためには 自分を越えたものを設定するしかないと 主張されたのかもしれません。 私の思考基盤に入って来れないもの 阿弥陀如来という 私の思考回路に入ってこない働き。 ![]()
by jyukushian
| 2009-12-05 13:34
| WEB版 熟柿庵だより
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