カテゴリ
以前の記事
2024年 08月 2024年 06月 2024年 04月 2024年 03月 2024年 02月 2023年 12月 2023年 09月 2023年 07月 2023年 03月 2023年 02月 more... ライフログ
著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
その他のジャンル
|
私の知り合いの方が
勉強会のとき、 「戦時中、私と同僚が前線にいたとき 運悪く同僚が玉に当たって亡くなった。 何故、彼が死に私が生き残ったのか そのことが理解できない。 運がよかった、悪かったで済ませられない」と 語っておられました。 こうしたことは私の身の回りにもよくあることです。 たまたま、あの電車に乗っていたら今の私はいなかったとか もう一分遅れていたら、あの交通事故に巻き込まれていたに違いないとか これらは 自分の力ではどうしようもないものです。 あるいは病気にしたってそうです。 なぜ私が、こんな病気にかからなければならないのか こうしたことは 理不尽なことだから あきらめるしかないのか? 説明がつかないから、あきらめるしかないのか あきらめきれるのだったら、それはそれでよい。 そこで解決できたということだから。 しかし 本当はあきらめきれない。 こうした問題は 私の人生のうえで とてつもなく大きな問題である。 それを 仏教は答えてくれるのだろうか いま、 歎異抄でそこのところを学んでいる。 かつては 仏教は それは業だから、宿業だからあきらめなさい と教えてきた。 歎異抄において、親鸞は そうはかんがえていない。 私たちが出遭う、運不運、幸不幸は そのこと事態、幸でも不幸でもない、人生の上に起こるひとつの出来事に過ぎない。 短い命で死んでいくこともひとつの出来事である。 そのこと自体に良いことだとか、悪いことだという意味はもっていない。 その出来事に、あるいは状況に 幸とか不幸と思うのは私たちの自我意識である。 自我意識とは 自分がいちばん可愛いと思う心である。 その自我意識が様々な出来事や状況や環境に対して 良いとか悪いとか、云っているに過ぎない だから、仏教は その自我意識を無くしなさいと教える しかし 親鸞さんは その自我意識は死ぬまで消えませんと語っている 不断煩悩得涅槃 出来事とか、境遇とか そういうもの以上に 命の存在に眼を向けなさいよと 教えている。 私たちは 自分に与えられた境遇や生きる場を通して その悲しみを通して 命の存在の大きさに触れていくのかもしれない
by jyukushian
| 2009-12-07 21:01
| WEB版 熟柿庵だより
|
Comments(2)
Commented
at 2009-12-10 10:59
x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
jyukushian at 2009-12-19 22:26
正幸さん、コメントありがとうございます
ご質問について 詳しいことは知識不足で正確にお答えすることはできませんが、ここでは仏教の意味に解してよろしいのではないかとおもうのですが。
0
|
ファン申請 |
||