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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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先日、大無量寿経の勉強会がありました
そのご講義を聴いていておもったことですが、 それぞれの人の阿弥陀仏の信心は それが正しいか間違っているか、 どのようにして検証できるのかということでした。 親鸞さん自身も 弥陀の誓願をよくよく案ずれば私1人のためのものであったと 述べておられます。 つまり、曲解すれば、 これがわたしにとっての弥陀の誓願であるといえば それは、誰にも否定できないのではないか、ということです。 そもそも 弥陀の誓願は不可称、不可思議、不可説と説かれています ということは論理や言語で判断できるものではなく、 また、他人の持っている弥陀に対する考えも検証できないのではないか とおもいましたl つまり、阿弥陀如来に帰依する宗教団体があったとして その団体が解釈している弥陀観を誰も批判できないとしたら 困ったことです。 やはり、これは本当の弥陀の教えである、あるいは間違った教えであると 判断できる物差しがないと不味いのではないでしょうか 私の今いだいている弥陀如への思いも、これが正しいのか正しくないのか 判断材料がないと困りますl そうした質問に対して 先生は 感動が一つの判断材料になります、と応えてくださいました。 これもなかなか難しいことです。 宗教がとても個人的なことだとすれば 本当は検証なんか必要ないのかもしれない。 だけど、個々ばらばらに解釈されても だめなんですよね。 難しい 今後の私の課題です。 ![]()
by jyukushian
| 2010-04-21 00:28
| WEB版 熟柿庵だより
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