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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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毎月、「歎異抄にまなぶ会」を熟柿庵でやっております。
テキストは、十数年前の寛弘先生の講義録です。 第九章、あらためて心深く響いた響いた箇所がありましたので、掲載いたします。 仏様の願いというか、かけられている願いというか、それ、一体何かということなんです。 私たち生き物という、生きている命あるもの、そこに仏法があるんですよね。 この中に仏法と言われているものがあるんです。 これを間違えてもらっては困るんですよね。 生きていて命あると。 そこで初めてものを分別し、命あるからこそ五感があって、 脳があり、知識し、分別し、論理をつけて、そして納得する。 仏法というのをこちら側(意識の世界)にあると思っているんですよね。 自分で修行し、五感で分別し考え、そして、「あ、こうだ」と言って納得する。 ここに仏法があると思っているんですよね。 そうではないのです。 仏法というのはこの元のところに、生きている、存在している、そのことの中にあるんです。 それこそ、まさに天地一切の法が花開いている相なんです。 しかし、私たちが生きているといっているのは、 こちら側で生きていると言っているんですよね。 私たちが生きていると考えているのは、 こちら側で生きていると考えているのであって、法の世界のことは全然考えていない。 今、親鸞聖人はここで、 生きている命あるもの、この中にある仏の願いというものを見られるわけですよね。 この中にある仏の願いというもの、 人間というのは、「意識の世界」だけで生きていられない。 これだけで生きていられないのです。 でもこの五感でもって、分別、論理、納得、これをもって、 これを持たなきゃ生きていられないんですよね、 そしてこれを全部まとめて持って出てくるときに、何かと言ったら、いつでも、自分勝手さというか、排他性というか、いつでも自分以外のものを排し、 そして独善的なのです。完全に排他的でないと生き物は生きていられないんですからね。いつでも独善的であって、これなくして生き物、生きていられないですからね。 毎日私たち、生き物として見たときに、 やっぱり食べ物があって、選んで食べなきゃいけなし、 そして、自分に都合の悪いものは排除しなきゃ生きていけなし、 そして私の意見をちゃんと言わなきゃ困るし、 俺が、俺が、ということ無くして生きられないのです。 これが私たちの生き方なんですよね。 しかし、内にこれ(本願)を持っているんですけれど、 現実に表れてきているのは、 こちらの側だけで表れてきているのが、私たちの命のありようです。 それ以外に生きようがないんですよと、親鸞聖人はおっしゃるわけです。 まさに煩悩具足の凡夫、これ以外の生き方は人間にはありませんよと 親鸞聖人はおっしゃるわけです。 ![]()
by jyukushian
| 2010-09-10 12:26
| WEB版 熟柿庵だより
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