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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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今月の「歎異抄にまなぶ会」は
第9章です。 最初にとても気になったところです。 内容を要約すると 親鸞の弟子の唯円が 念仏のありがたさを教えてもらっても そしてまた、阿弥陀如来の本願に帰依したと思っていても どうしても、心の底から喜びの心が起こってこない どうすればいいのでしょうか、と 親鸞聖人に尋ねるのです。 親鸞さんは 実は私も、心からの喜びが湧いてこないのです あなたと同じ心境なのです、と返事する。 死ぬ時は恐いのです、いつまでもこの世にとどまっていたいのです。 「安養の浄土は恋しからずや」(一度も行ったことのない浄土は行きたいとも思わない) そして 喜ぶべきを喜べないのは 私たちの煩悩によるのである。 こんな煩悩だらけのわたしであるからこそ、 阿弥陀如来は本願を私にかけてくださるのであることよ。 だからこそ、阿弥陀如来の本願は このように、煩悩の世界に苦悩しつつもこの世に執著している私のために 働いてくださっているのだと 頼もしく思うのである。 このように 親鸞さんは答えている。 この展開がどうしても理解できなかった、いや未だに理解できない。 僕は昔、実感という言葉をキーワードにして仏教を考えていたことがある。 それは今でも少しある。 今の私の心なり感情に変化が起きる、何らかの実感がわく、 そういった心の変化を求めて人は宗教にアプローチする。 しかし、 この九章で、親鸞さんは私が思っているような実感を 根底から否定しているように思える。 この第9章では 阿弥陀如来の働きになんの感動も感じない私、 それだからこそ、ますます阿弥陀如来はこんな私をも 掬い取ってくれるのである。という論理・ もし私が阿弥陀如来の救いを信じて心から喜べるようになったら そんな人間には阿弥陀如来は必要ないのだという結論で終わっている。 つまり、阿弥陀如来を信じられないからこそ 阿弥陀如来は働いてくれているのだということになる。 これが、歎異抄第9章の論理展開である。 これは一見、私が考えている実感というものを無視している。 実感なんてあてにならない。 実感なんてその場の単なる感情の起伏に過ぎない、 だけど 実感という言葉をもう少し敷衍すれば 何らかの心の変化がなければ 人は宗教に魅力を感じないのではないか 宗教と言う存在の価値を果たせないのではないかとも思う。 つまり、親鸞さんは 実感という言葉の表面的な意味を超えて もっと深いところで 阿弥陀如来に帰依しているように思える。 それはある意味で、 やはり心にある種の変化が生まれているということなのかもしれない。 うまくいえないが、 実感というのは やはり、その場、その時の状況によって、その時の心の受け取り方によって 左右されるもので、 当てにならないものなのかもしれないということだ 入門のところで表面的な実感は必要なのかもしれない。 だけど、本当の阿弥陀如来の働きは 人間の表面的な感情なんかに直接訴えるような 生易しいものではないのかもしれない。 弟子、唯円の 「どうしても念仏を心から喜ぶ気持ちにはなれません」 という問いかけは やはり私にとって 未だに衝撃的である ![]()
by jyukushian
| 2010-09-16 00:42
| WEB版 熟柿庵だより
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