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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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僕は風景を眺めている
本当は、僕もその風景の一部なのだけれど そんなことに気づかないで じっと風景を眺めている あの木はずっと遠くにあると見える こっちにある沼地は水が汚なそうだから 僕の眼は避けようとしている、 あの山はずっと遠くにあるように見える。 この風景は 実は僕が居るそのポジションを中心にした風景なのだ あの山の近くに行ったらまた違った風景が見えてくる。 当たり前のことだけど つまりは 今見ている風景は僕という視点、僕の立っている位置によって 見えているに過ぎないのだ。 そしてまた 僕が見ている風景は 実は本当に外に広がっている風景ではなく 厳密にいうと 外の風景を材料にして 僕の頭にあるキャンパスに描かれた 架空の風景でしかないのだ。 外に見える風景の中に、小さいものがあったら 僕はそれを遠近法という作業を頭のなかでして それが遠くにあるように修正してみているのだ。 頭の中の意識で外の風景を修正して見ているのだ。 その証拠に 幼い頃に視力を失った人が 何十年ぶりに外の風景を見ると それは 私たちが見ているのとまったく違ったように見えるのだという。 僕たちは 意識というものを持っているが故に 様々な現実を素直に現実として 受け取っていないのだ。 素直に現実を受け取るとはどういうことか 意識を介しないで現実を受け取るとはどういうことか それは 説明できないもの 不可称、不可説、不可思議 歎異抄の第十章は そんなことが書いてあるのだと思いました。 ![]()
by jyukushian
| 2010-12-19 15:24
| WEB版 熟柿庵だより
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