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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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荘子の本の中に
「井の中の蛙、大海を知らず」ということばがあります。 これは、字句通りに読むと、 小さな井戸しから知らないカエルは、その外におおきな海原が広がっている ということを生涯しらずに過ごす。ということです。 カエルの見識の狭さを表現したものです。 こんなふうに理解すれば話は簡単なのですが、 荘子は、もちろんカエルのことを言おうとしたわけではありません。 カエルではなく、人間のことを言おうとしたのです。 そうなるとこの話はがぜんややこしくなります。 もしそのカエルが私だとすると、 私が生きている世界は、小さな井戸ということになります。 井戸の世界がすべてだと思い込んで生きている私ということになります。 もっと具体的にいえば、 私にとって井戸とは、たとえば、私が生まれ育った環境であり、 私の両親であり、今生きている時代であり、男であり、といった具合に 私を取り囲んでいる井戸の壁はそういうものです。 そこから逃れることはできない、ということ。 では大海を知らずと言ったのはだれか。 それは大海を知っている何者かということになります。 人間は、井戸の外に大海があることを知らないのだから、 大海があることを知っているのは、おそらく人間以外の何者かです。 しかし、小さな井戸に住んでいる私は、井戸の外に大海があることを この言葉によって知ってしまった。 つまり、私は小さな井戸にいながら、想像力で 私の住んでいるこの世界がとても小さなことを 想像できるようになったということになります。 つまり、本当は広い世界があることを想像でしっていながら せまい井戸の世界でしか、生きられないことを認識するということです。 私は人間ではなく、何者かと同じ立場にたってしまったことになります。 これは 最初の「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉と大いに矛盾することになります。 大海を知っているじゃないかと。 大海を知らず、ということを徹底するならば 次のような、ことになります。 つまり 最初に小さな井戸に住んでいた私は、本当は外に広がる大きな海を知らなかった しかし、この言葉によって、私が小さな世界に住んでいることを知り その外に、何者にも縛られない大きな世界があることを知る。 しかし、実は、そうしたことも それを取り囲む大きな井戸があるということ。 私たちは、どれほど想像力を働かせても その井戸の壁からはのがれられないということです。 そして あらためて、では、大海を知らずといったその張本人は 一体何者か、 絶対者?阿弥陀如来? なぜ、こんなことを問題にしたかというと 人と話していると時として、相手のことを 「この人、考えがせまいなあ」と思うことがあります。 それは、私がこの人より、広い世界の立場にたっているから そう思うわけです。 あたかも私は、小さな井戸の壁を飛び出して 広い世界を知っているようなつもりになってしまうのです。 しかし、私自身、小さな井戸の壁を乗り越えることはできないのです。 だけど、できたようなつもりになっている、そのことの怖さ、傲慢さ。 相手と比較することによって私の世界は狭いとか広いとか思ってしまうことの傲慢さ。 私は本当は、広い世界が私の小さな井戸の壁の向こうに広がっていることをしらないのです。 良寛さんも 「エビは飛べど枡を出でず」と書き残しています。
by jyukushian
| 2013-05-16 20:39
| WEB版 熟柿庵だより
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