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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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5月の勉強会は25日の土曜日です。
午後6時半から坐禅。 7時から勉強会。 8時過ぎからアルコールつきの飲食しながらの「本音トーク」です。 会費千円。 どんな勉強会をやってるのか ご紹介をかねて、レジメを掲載いたします。 ご参照ください。 興味をもっていただければ、お気軽にご参加ください。 新しい方も大歓迎です。 私の命、そもそも意図された目的をもって生まれてきたわけではない。だけど成長していく中で眼や耳などの知覚が発達しそして意識も育っていく。そして生きているという状況の中で意識が異常に発達し、生きている事実そのものも意識で捉えようとする。そこから抜け落ちていく大きな事実。そこから生きることの目的も強引に作り出されてくる。さまざまな人間的目的が生まれ、そのためのさまざまな手段が考えられてくる。その目的が果たされることもあれば果たされずに終わることもある。人間の日常生活そして人生は大半がこのように過ぎていく。そして大半が目的の途中で人生を終える。人間が勝手に目的を作り出したのだからそれはいたしかたのないことなのでしょう。 意識は自己中心性から逃れることはできない。常に自分を中心に周りを見るくせ。自分を中心にした意識が目的を作り出し、そのために知覚を使っているのであるとすれば私たちの眼や耳や鼻はその自己中心性に呪縛されて使われている。知覚によって外界のさまざまなものや出来事を受け止め、それを元にしてさまざまな感情や意識が作り出されているのだから、悪循環という言い方もできる。 何故意識は自己中心的なのでしょうか。眼という知覚について考えてみると眼の前に風景が広がっているように見えるけれど、風景が今見ているような形で存在しているように思うけれど、それは眼が私の意識のすぐそばの顔にあるからであって、コンパスの芯のようにその眼を中心にして周りをみているからであって、しかし私の眼は風景を捉える特殊な窓に過ぎないのであり、私によって作り上げられた特殊な風景でしかない。ひょっとしたら幻影かもしれない。そこでそっと眼を閉じてみる。そこは暗闇のように見えるけれど実は暗闇以前の世界。ひょっとしてこれが人間の目という視点から解放された本当の世界かもしれない。ちょっと脱線しました。哲学的になりすぎると迷路に迷うだけです。 自己中心性を離れた意識。たとえば隣の人と交わす何気ない挨拶がその日の私の日常をどれほどゆたかにしてくれているか。あるいは悲しい出来事にあって悲しめるということがどれ程大切なことか。美味しいものを食べて美味しいと思える感情が私の人生にどれほど影響を与えていることか。死んでいくという悲しみや怖さが私の人生をどれほどささえてくれているか。私の何気ない想いがどれほどの歴史と周りの空気の匂いによってかもし出されているのか、そんなことは普段考えもしないで過ごしています。私のふだんの生活は、ただ私の神経を逆なでする状況や出来事を憎み、そして排除することだけに意識はいってしまうということ。 福岡伸一氏の動的平衡論や細やかな生物観察が私に感動を与えてくれるのは、物理的肉体的に意識の自己中心性を解き放っている世界を垣間見せてくれるからです。 ティック・ナット・ハン氏のインタービーング(相互依存)の教えが私に感動を与えてくれるのは人間がいかに他の命の存在なくして私の命が成り立たないかと言うことを教えてくれるからです。自己中心的に生きている自分を反省させてくれるからです。 阿弥陀如来の働きは、自己中心的にしか物事を見られない私に、その自己中心性も含めてもっと大きな世界を提示してくれる。意識の届かない自然の働きも含めて。これはやはり人間の意識の殻の外にあるものによって提示されなければならないのでしょう。 親鸞聖人はそれを阿弥陀如来と了解されたのでしょう。 先日、「胸の泉に」という詩に出会いました。塔和子さんの作品。 「かかわらなければ この愛しさを知るすべはなかった この親しさは湧かなかった この大らかな依存の安らいはえられなかった この甘い思いや さびしい思いも知らなかった 人はかかわることからさまざまな思いを知る 子は親とかかわり 親は子とかかわることによって 恋も友情も かかわることから始まって かかわったが故に起こる幸や不幸を積み重ねて大きくなり くり返すことで磨かれ そして人は人の間で思いを削り思いをふくらませ生を綴る ああ何億の人がいようとも かかわらなければ路傍の人 私の胸の泉に枯葉いちまいもおとしてはくれない」 2013年3月30日
by jyukushian
| 2013-05-23 19:49
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