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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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お話しをしてくださる方のレポート第二弾です。
少し長いですが転載いたします。 今年の1月20日にロンドンの国際非政府組織(NGO)のオックスファムから衝撃的な発表がありました。世界では貧富の差が拡大し、最富裕層八十五人の資産総額が下層の三十五億人分(世界人口の半分)に相当するほど悪化したとの報告書が発表されました。さらに人口の1%を占める最富裕層が世界の富の半分を握っていると分析しています。これらの人々はリーマンショック後の経済成長による利益の95%をかき集めたということです。その一方で貧困層の生活は苛烈を極めています。先日、熟柿庵の勉強会の仲間がネパールの山間部を訪れ、その報告をしていただきました。徒歩で2時間掛けて学校に通う子供達、土間での生活、出産で母を失い一人で暮さざるを得ない男の子など、逞しく生きているものの、現代文明に暮らす我々からすると過酷としか言いようのない現実があります。求めるものが手に入らない「不具得苦」の状態にあるといえるでしょうか。一方、富をかき集めている富裕層は、部屋数が50もある館の窓からプールの先にある庭園を見ながら、貧困層のことなど忘れ、悦に入っているのでしょうか。たぶんそうではないでしょう。彼らとて自由にならない世の中に不満を募らせているかもしれません。まだまだお金が足りないのです。今年は昨年より、今月は先月より富を増やさなくては失敗者になってしまうのです。いくら食べても飲んでも空腹と喉の渇きが満たされない「我執渇愛」状態にあると言えるでしょう。1990年代に冷戦が終結し資本主義が勝利したと言われたときに、このように貧富の差が拡大する社会が訪れることが予想されたでしょうか。なぜ、このようなことになってしまったのでしょうか。 貧困というときに、我々は知らず知らずのうちにある認識の枠組みの中にいることに気づきます。たとえば山に暮らす猿の食糧がなくなり、彼らが里山に下りてくるようになっても猿たちが貧困に苦しんでいるとは言いません。また人間社会の中においても、アメリカのアーミッシュと言われる宗教集団のように現代文明を拒絶して暮らす人々が貧困であるとも言いません。アマゾンの最奥地に暮らすインディオたちは、文明に触れさせるというよりも遠くから見守る対象になっています。彼らもまた貧困層とは見なされていません。すなわち、貧困というときに我々はある価値基準のもとに人々を包摂しようとしています。この価値基準に包摂された人々に対して貧富の差を問題にします。この価値基準はどこからやってきてその正体は何者なのかを問うことから始めようと思います。 貧富が成立するには、多寡の比較ができる必要があります。多寡の比較が可能となる条件として、交換可能性、蓄積可能性が必要となります。例えばエチオピアのマゴ・ムルシ族は唇を伸ばし、そこに大きな輪を入れていますが、我々は綺麗な飾りの口輪を沢山持っている人を豊かだとは思わないでしょうし、逆に彼らは日本の株券を沢山持っている人々を豊かだとは思わないでしょう。交換することに意味のある世界内において、貧富の差が発生する可能性が出てきます。しかし、これだけではまだ十分ではありません。交換したものを蓄積することによって始めて貧富の差が発生します。すなわち、交換の場を提供する所としての「市場」、蓄積を可能とする手段としての「貨幣」の存在によって貧富の差が発生することが分かります。 ここで人類の歴史を見てみると、「市場」は昔から存在したものではありません。存在したとしても周辺的なものであり、朝貢貿易のように外部世界との友好関係を維持することが主目的でした。アダムスミスが言うように「人間にはもともと取引性向が備わっている」というようなことはないのです。一方、貨幣も昔から存在していますが、取引と利益の蓄積のために存在していた訳ではありません。社会を円滑に回していくための補助手段でしかありませんでした。税金は貨幣でなくても穀物などの主食で納めることの方が一般的でした。原始社会での貨幣の機能を分析すると貨幣は一方的な贈与の印であり、贈与を受けた人は必ずその贈与を返す義務が発生します。つまり、贈与の連鎖を作ることのよって、社会の繋がりと安定を保つことが貨幣の役割であることが分かります。貨幣は社会的行為の交換手段であり、蓄積機能は副次的なものでしかありませんでした。このように市場と貨幣の起源を見れば、経済は社会および社会間を安定化させるために存在していたのであり、社会に従属していたと言えるでしょう。 あるとき経済は社会から自立を始めました。現在では経済は国家をも従属させようとしています。企業が不利益を被りそうな場合は他国家を訴えることも可能となろうとしています。自国の憲法よりも外国の企業利益が優先される事態が発生しようとしています。また、各国は外国企業の法人税を切り下げ、自国民の消費税を上げようとしています。このようにして富の蓄積と貧富の差の拡大は無制限に行われようとしています。まるでいままで正常だった経済という名の細胞がある日癌化して無限増殖を始めたように思われます。癌細胞はやがて自らの命を滅ぼすことになるでしょう。このように国家をも支配し、自らも破壊しかねない経済細胞の自立(癌化)はいつ始まり、これを許したものは何だったのでしょうか。 経済の拡大という視点で見ると、まず取り上げなければならないのが産業革命でしょう。産業革命によって一気に先進諸国は経済成長の急カーブに乗るようになりました。今ではBRICs諸国がこのカーブを追いかけてきています。やがて東南アジアやアフリカ諸国もこれに乗ってくるでしょう。この経済発展の原点としての産業革命を起こした要因は、教科書的には動力としての蒸気機関の発明、土地を追われた農業労働力の供給、鉄鉱石と石炭の供給、市場としての植民地の存在、清教徒革命による社会基盤の変革などがありますが、これらは必要な条件ではあるかもしれませんが、十分な条件ではありません。十分な条件であればむしろフランスで産業革命が起こっていたでしょう。勤勉性と倹約を旨とするプロテスタンティズムが資本主義の原動力ならドイツが産業革命を起こしていたでしょう。さて、真の要因とは「人間は本能として取引性向を持っており、自己の利益を追求することが許されている。自己の利益を追求することは結果として社会調和を実現する」というドグマにあるというのが私の見方です。このテーゼこそ産業革命時にイギリスで喧伝された思想だったのです。それまで人類の長い広範な歴史の中で、あるいはどんな原始的な社会においても「自己の利益を追求する」ことが許される社会など存在しませんでした。そんなことすれば社会的制裁が待っていました。なぜなら人間社会は人々の繋がりで成立しており、その繋がりを乱す行為は厳しく制限されていました。中世においては金利を取ることすら禁止されていた時期がありました。この制約を解き放した思想こそがイギリスの産業革命を可能にしたのでした。 「利益追求」の思想革命が成功したように見えた条件こそが今の資本主義社会の様々の問題に引き継がれています。そもそも利益とは格差があって初めて出現するものです。対等な関係では等価交換となっていまい、利益は出せません。格差には、資源、労働力、技術力、資本力、情報量、文化など様々な面があります。格差が大きいほど利益も大きくなります。この格差を埋める歴史が経済発展の歴史だと言えます。逆にいうなら格差がなくなったときに利益が消滅し、資本主義が死滅することになります。従って、資本主義はエネルギー源としての格差を求め、常にフロンティアを開拓しなければ生きていけない宿命を背負っているのです。フロンティアを誰が握るかによって覇権国が推移してきました。陸のスペイン、海のイギリス、空のアメリカ、最期に残ったサイバー空間と金融空間をアメリカが埋め、もはや空間としてのフロンティアは消滅しました。空間が失われたときに最後に狙うのが「社会の経済化」という試みです。今まで経済は社会に支配されていましたが、主客が逆転し、経済が社会を支配するようになったのです。まさに自分自身を破壊する癌細胞の悪性化が更に進むことになったと言えます。 「社会の経済化」という現象の歴史も産業革命に遡ることができます。「社会の経済化」とは端的に言うなら「規制緩和」と「倫理基準の緩和」の歴史であると言えます。労働力という観点でみると給与生活者として働くことは今の我々には普通のことと思われるかもしれませんが、産業革命当時に労働者となることは工場に身を売るというような忸怩たる思いがあったのです。また、先祖伝来の土地を売ることも恥ずべき行為だったのです。さらに、社会を円滑化する手段としてのとしての貨幣を借りることも恥であり、そこから利息をとることも卑しい商売だった訳です。そもそも労働、土地、貨幣は商品ではなかったのです。今の資本主義社会では労働、土地、貨幣は当然のごとく商品として扱われており、取引に恥を感ずる人はないかもしれません。この「社会の経済化」という現象は今や止めどを知りません。刑務所や軍隊の民営化、臓器売買、精子バンク、レンタル家族など挙げたら限りがありません。しかし、他方で「社会の経済化」は出産、育児、引越し、介護、葬儀などにおいて利便を提供し、人々を縛っていた密な人間関係から解放してきたのも事実です。だからこそ広く受け入れられてきたとも言えます。悪い面ばかりではありません。 本論の前に何やら暗い話が続いてしまいましたが、「社会の経済化」の悪い面をもたらす「利益の蓄積」というバイアスの掛った現実を少しでも変え、よりよい方向に向かわせたいというのが「腐るお金」の目的です。 原点に立ち戻って考えてみると、貨幣は社会活動を円滑に進めるための手段であり、物の交換手段であったはずです。物々交換をした場合、交換したものは腐ったり壊れたりします。ところが物と交換する代わりに貨幣と交換した途端に貨幣価値は永遠性を持ってしまいます。永遠性を持つがために蓄積が可能となるのです。この蓄積が欲望を掻き立て怪物(リヴァイアサン)を生みだすのではないでしょうか。そこで、お金を腐らせてしまう「減価する貨幣」という発想が出てくることになります。「減価する貨幣」とはマイナスの金利を取るとか、税金を掛けるということではありません。マイナス金利や税金では富が他者へ移転するだけです。まさに放っておいら貨幣の価値そのものが減ってしまうというものです。誰のところにも減価価値は移転しません。 貨幣には超越的な神性があると言われます。なぜなら先ほど述べたように貨幣価値そのものは、減らないという永遠性があります。さらに、人々が貨幣制度を信ずるが故に貨幣制度が成立するという信仰の側面もあります。ある貨幣制度が信じられなくなったときに価値を表す記号(紙幣、ビットコイン)は屑になります。また、貨幣価値の前にすべての人々は平等に扱われます。人の属性により貨幣価値が変わることはありません。このような神性を持った特定の貨幣を信ずる人々を世界中に広めようという布教活動が「通貨」を生みます。言わば「通貨」とは超越的な一神教の世界です。そもそも貨幣は現実世界を制御する存在であるにも関わらず、そこに神性を与えれば怪物化(リヴァイアサン)するのも当然かもしれません。怪物化の例として金融工学によるレバレッジ(梃子)機能を上げることができます。お金のあるところには必要以上のお金が集積し、お金のないところには必要最低限の生活さえ脅かされる現実が待っています。これに対して「減価する貨幣」は、貨幣を超越的な一神教の世界から、現実の理法(諸行無常、諸法無我)に従わせようとする試みと言えます。 紙面の余裕もなくなってきましたので、減価する貨幣の具体的なお話は勉強会の場でさせていだければと思います。 ![]()
by jyukushian
| 2014-04-17 23:30
| WEB版 熟柿庵だより
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