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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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今、スコセッシ監督によって映画にもなった話題の小説
遠藤周作氏の「沈黙」を読んでみました。 大変ドラマチックで、時間があれば映画も見てみたいです。 物語は 江戸初期、幕府によってキリシタン弾圧が行われ、 多くの日本人信者が犠牲になり、ポルトガルから来日した司祭 も、いわゆる踏絵を余儀なくされて、改宗を迫られ、改宗しなければ残虐な刑によって殺される。 こんな残虐なことまでされているのに なぜ神は沈黙をしているのか、なぜ神は我々になにかを語ってくれないのか これがこの小説の最大のテーマ。 マリアやキリストが描かれた銅版を足で踏むこと、 キリシタンにとっては神への裏切り行為となり、信者ではなくなることを意味する。 日本人の私にとっては、ちょっと考えられない。 その場で、踏むだけで、命拾いしたあと、 心の中で信仰を持ち続ければ済む話ではないかと 思ったりする。 だけど、キリシタンにとってはそんな軽い話ではないらしい。 踏絵をすることは、自分の信仰の心さえ裏切ることを意味するらしい。 それを たとえば 仏教と比較してみると、 銅版に 「南無阿弥陀仏」と書かれていたり、 「あみだ如来」の絵が描かれていても おそらく 大半の浄土系の仏教徒は、いや全員の浄土系仏教徒が 躊躇するかもしれないけれど、きっと踏むにちがいありません。 なぜなら、 本当の阿弥陀如来は、像ではなく目に見えないもので、仮の姿であると知っているから。 「南無阿弥陀仏」というのも、書かれた文字ではなく、 名号というものを言葉化した仮のものでしかないからです。 本当の名号は 心に思うこと、あるいは口でとなえることです。 だから 仏教を禁制にするためには 心に南無阿弥陀仏を思うこと、 あるいは、口に「ナムアミダブツ」と唱えること それを禁ずるということになる。 これは物理的にも不可能なこと。 心の思いを禁ずることはできないのですから。 遠藤氏は別のあるところで 「神の存在は日本人にはなかなか理解できないものです。」 と書いておられる。 たぶんそうなんだろうなと思います。 神と人間との関係、 これはもっとキリスト教のことを深く 理解しなければいけないことだと思いました。 やっぱり、「沈黙」の映画、見にいきましょう。 ![]()
by jyukushian
| 2017-02-08 13:37
| WEB版 熟柿庵だより
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