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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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ゴールデンウイークもそろそろたけなわ
私は今年もどこへも行かず、 ただひたすら二十願のことを考えておりました。 東本願寺のご住職、本多弘之先生のテキストをずっと読み続けております。 本多先生は ご自坊にて、ずっと5年以上、二十願についてごこうぎされています。 阿弥陀如来の48の本願のなかの第二十願、 たかだか、二行ほどの短い誓願ですが、 そのことにずっとこだわって親鸞聖人の宗教観を あきらかにしようとしておられます。 二十願というのは 悩み多き人生のなかで、 それをなんとか解決して満足のいく人生を歩みたい。 だけど、なんともならないことがいっぱいある。 努力して何とかしようと思う心。これが19願の本願の願い。 だけど、自分の努力では何ともならないことが山ほどある。 自分の人生で自分の努力ではなんともならないことがいっぱいあることに気づく。 阿弥陀様は他力を信じて念仏を唱えなさいと教えてくれる。 これが、20願の教え。 しかし、人間は 念仏を唱えればなんとかなるのか、と考えてします。 つまり、念仏を唱えればなんとかなるのだろうか という自力の考えに念仏を取り込んでしまおうとする。 どこまでいっても自分の考えというものから解放されない自分のこころ。 これが親鸞さんが念仏について悩んでいたことがら。 「ねんぶつをとなえれば、なにか変化があるのではないか」という人間の性。 そして 18願は、人間の側からではなく、仏の働きによって人間は育てられているのだという 確固たる受け身の信心。 この仏の働きと、人間のなんともいえない自我のこころ。 このせめぎ合いのなかで、20願は成り立っている。 本多先生の講義録に おもしろい話が載っていた。 S・Iという人がいて、現在も活動を続けているらいしいのですが、 キリスト教の聖書をもとにして、若い女性たちと勉強会をしている。 彼が、昔、本多先生と対談した話があった。 それによると、 彼は実家は浄土真宗の家だった。 彼は、親鸞聖人の教えを学んで、 20願がどうしても理解できなくて、キリスト教に転向したのだという。 つまり、 自力でなんともならない人生ならば、20願のややこしいプロセスを経ないで、 一気に絶対の神に帰依したほうがよっぽど救われるのではないか、 ということで、親鸞を捨てたとのこと。 それほどに 人間は自力のこころを離れられないのだ、 自力を捨てがたいのだと、いうこと。 親鸞はそのことがどうしても 腑に落ちなかったのだ。 自分のこころをあいまいにしておけなかったのだ。 「教行信証」に述べられている親鸞の鋭いこころを見つめる目は わたしの心を揺さぶり続ける。 ![]()
by jyukushian
| 2017-05-06 01:58
| WEB版 熟柿庵だより
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Comments(2)
『大無量寿経』を素直に読めば、全四十八願のうちで、信者にとって一番重要なのは十八願だと、すぐ気づくように書いてあると思います。
では、それを百も承知二百も合点していたはずの親鸞聖人は、なぜ「三願転入」という苦労の多いまわり道をしなければならなかったのかと考えたことがあります。 いきなり十八願を信じて救われる人が、本当にいるのか…正直、私には分かりません。 「三願転入」することによって、初めて十八願にたどりつく可能性が開けるタイプの人がおおぜいいて、このタイプの人にとって「まわり道」は実はまわり道ではなく、必然的な一本道なのだと思います。 私には、十九願的な修行から入っていく道だけが与えられている気がする。 しかも、その入り口辺りでうろうろしているのが現状。やがて二十願の世界に移るとか、さらに十八願の世界に至るとか言われても、全くリアリティーがないのです。
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ご返事が遅くなりました。ご意見いただきありがとうございます。
人間の意識の思考回路の属性として19願というのは自然な思いです。その思考回路を超えたところに念仏という教えがあると思うのですが、では素直に18願に帰依すればいいはずですが、やはり念仏を意識の中に取り込んで、何かを期待する思いが残ります。そのどうしようもなさを20願の中に親鸞聖人は見出しておられるように思います。親鸞聖人が18願に帰依されたのは、わが身の罪悪深重さにおいてです。罪悪深重と弥陀の光明はセットになっていると感じます。でも私は自らの罪悪深重さをそこまで掘り下げておりません。私の意識はやはり何かをし、そして何かを期待する、その思考回路をうろついております。親鸞聖人の弥陀如来への信心は私的に言えば実存的なものだと思われます。
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