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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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大峯先生の言語論 言語には3種類ある。 1つは、記号としての言語、 たとえばここに一つのリンゴがあって、それをりんごという言葉で表現する。 りんごという言葉は、実態ではないから食べられない。単なる伝える役目の言葉でしかない。 たとえば「おはよう」という。相手が「おはよう」といえば、それで「おはよう」という言葉の役目は終わる。 つまりその言葉は役目を果たして死んでいく。 2つ目は、概念としての言葉。 これはよく学問なんかで使われる。 たとえば、「中世」という言葉、これは、中世という実態があるわけではなく、ある共通した状況をさして、中世という言葉を作り出す。 たとえば「神」であったり「仏」という言葉も概念の言語である。 そして3つ目の言語、 大峯先生は俳句をなさっていたので、俳句をたとえに説明される。 たとえば、松尾芭蕉の俳句にある「ふるいけ」という言葉、 これは「ふるいけ」という実態の記号としての言語ではなく、 「ふるいけ」そのものが、語りだす言語である、私が「ふるいけ」を名づけて「古池」というのではなく、 「ふるいけ」自体が語りだした言葉である、という。 ちょっと難しくなってきました。 そして、 「なむあみだぶつ」という言葉は なにか得体のしれない実態があってそれを言語化して「なむあみだぶつ」という記号にして 言語化しているのではなく、 「なむあみだぶつ」という言葉自体が実態でもあるのだ、という。 ハイデッガーは、「言葉への途上」の本の中で、そのことを語っているという。 言葉は単なる記号や指示語ではなく、言葉自体がたましいをもっているのだ、とのこと。
by jyukushian
| 2024-12-17 19:12
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