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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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やっと「唯識ということ」という本を読み終えました。
著者は仏教学者の兵藤一夫という方です。 その本の中に、 興福寺に伝わる言葉として、 「手を打てば 鯉は餌と聞き 鳥は逃げ、女中は茶と聞く猿沢の池」 という文を紹介されていました。 何気なく手を叩いて音を出したら、 猿沢の池の鯉たちは餌だと思って集まってくるし、 鳥は鉄砲だと思って逃げるし、 女中さんはお茶を持って来いという催促だと聞いてしまうという話です。 つまりひとつの事柄が人によって 全く違う受け取り方をしてしまうということです。 この例えはおそらく全てのことに当てはまるのではないでしょうか。 たとえば、わたしが親しみを込めて相手に笑顔の表情をしたとします、 相手はそれを軽蔑の表現として受け取るかもしれません。 馬鹿にされたと受け取るかもしれません。 異性だったら愛情表現だと勘違いして受け取るかもしれません。 その人その人がそれぞれの思いで 勝手な解釈をしてしまうということです。 つまり極端に言えば、 みんな誤解しながら暮らしているともいえるのです。 唯識ではそれを、 すべては意識という心が勝手に世界を解釈して 架空の世界を作り出しているというわけです。 現実にはそんなものはどこにも存在しないと。 そう言われれば、思い当たることがたくさんあります。 私たちは相手の本当の気持ちなど少しも理解していないのかもしれません。
by jyukushian
| 2007-12-27 01:05
| WEB版 熟柿庵だより
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