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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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第 二 章 なにが存在しないのか
《観音菩薩は人間に対する完全な理解への深き道のり(般若波羅蜜多)を修行しておられた時、五蘊(色受想行識)の存在を見きわめ、そしてこれら五蘊が実在しない〔空)ことをも発見されたのである》 ☆ ☆ ☆ 「菩提」とは悩みを受けとめることのできる状態、すなわち目覚め、 「薩埵」とは悩みの発露である「生」を生きるもののことです。 したがって 「菩提」〔菩提薩埵)とは 生きながらにして目覚めているもののことです。 私たち全ては 菩薩となることもあれば、悩みに振りまわされる闇の中にいることもあります。 観音とはこの経典に述べられている菩薩の呼び名で、正しくは観自在といいます。 般若心経は観自在菩薩から私たちに賜ったすばらしい贈り物なのです。 この菩薩の名は、中国、ベトナム、朝鮮、そして日本において、 クワンウイン、クワンアム、あるはカンノンなどと呼ばれ、 その意味するところは 世界中の悲しみの声を聞き、そばに現れて救いの手をさしのべる、ということであります。 東洋では多くの仏教徒が観自在菩薩の名を唱え、祈りをささげています。 観自在菩薩は、なにものも恐れることのない安らぎの世界を私たちに示してくださっています。 なぜなら 菩薩自身が恐れ、苦悩を超克された方だからです。 (観音菩薩は男性である時もあれば、女性の時もあります) 「完全なる理解」という言葉は「般若」を訳したものです。 「般若」というと一般には「智恵」という言葉に訳されて理解されております。 でも わたしにはこの言葉は「般若」という語の本当の意味を伝えていないように思えるのです。 「理解する」とは 小川を流れる水のごときものなのです。 智恵とか知識といった言葉は どこか固定的で 「理解」への妨げとなりうるものです。 元来 仏教においては、「知識」は「理解」への道を妨害するものと考えられているのです。 例えば もし私たちが何かあることを真実だとおもったとしても そのことに執着するあまり、たとえそれが本当に真実であり、そして 私たちの心のすぐそばまで来てくれていても 本当の意味でその真実を受け入れて生きる、という一番大切なことはしないのです。 いや、それを望まないのです。 真実に触れる、 つまり本当の自己を知るためには、たちが今まで梯子を一段一段上るように積み上げてきた知識や考え方を超越しなければならないのです。 たとえば もし私たちが梯子の五段目にいて、そこがとても高いところ、すぐれた場所にいると思ってしまえば、もうそれ以上高いところへ上ろうという思いはなくなってしまいます。 私たちは段階的な思考法を超えることを学ばなければなりません。 「理解」とは水のようなものです。 それは流動的であり、対象物に浸透していくこともできるのです。 知識、あるいは智恵さえも固定的であり、「理解」への道に対して障害となるものです。 ~~~~~~「理解のこころ」より~~~~ 目の前にあるものであれ、人であれ、その対象を本当に理解するとはいったいどういうことなんだろう。 ものだったら、それは色は何で、あるいは何でできていて、どういう性質で、どういう役に立ってといったことで理解する。 あるいは人だったら この人は、どこの国の人で、どういう人で、どういう性格で、男で、女で、身長はどれぐらいあって、といったふうに理解していく。つまりその人の知識を増やすことによってその人を理解していく。 だけど、ハン氏は それは対象を本当に理解するのを妨げるのだという。 本当に相手を理解すること それはいったいどういうことなんだろう 一日一回クリックを よろしくお願いします〔武田)
by jyukushian
| 2008-03-06 22:59
| ティック・ナット・ハン氏
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