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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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色、受、想、行、識、これらは個々に独立した実態としては空であり、それゆえに存在するのです。
空は全てのものの拠り所、根拠なのです。 空のおかげで全ては存在し得るのです。 このことは、紀元2世紀の仏教哲学者、竜樹菩薩によって明らかにされています。 ものごとはじ実在しない、空であるという考えは、実に楽天的な概念です。 もし私が空でなければ、私はここに存在してはいないし、あなたもまたそんざいしないのです。 あなたがそこに存在しているがゆえに、私もここに存在しているのです。 これが空であるということの真の意味です。 「物質的現象は、他と関係をもたずに独立しては存在しない」 観音菩薩はまさにこのことを私たちに教えてくださっているのです。 もし私たちが空でなかったら、いったいどうなるのでしょう。 私たちは単なるものの固まりになってしまいます。息もできなければ考えることもできません。 私たちが空であるということは、息をし、生きていることそのものなのです。 実体がないということ、空ということは一瞬も止まることなく刻々と移り変わっていくということ、つまり空とは変化そのものなのです。 移り変わっていくことに不満を漏らしてはなりません。 なぜなら移り変わっていくことなくして、なにものも存在し得ないからです。 イギリスのある仏教徒が私に会いにやってきました。 彼は5年前から仏教徒になり、空とそして永遠な存在は何もないということについて、よくよく考え続けていたのです。 その彼が悲しげな顔で私にこう言いました。 「人生は空で、不変のものなど何もありはしないのですね」と。 彼は続けて 「ある日、14歳になる私の娘が言ったのです。 『お父さん、ものごとは移り変わっていくものです。そのことで悩んだり苦しんだりしないで下さい。移り変わっていかなかったらどうやって私は成長するの』と 」 まさにその通りです。 娘さんのいうことは少しも間違ってはいないのです。 たとえば一粒のとうもろこしを手に入れたとしましょう。 あなたはそれを土に植え込み、1本の大きなとうもろこしの木になってほしいと願うはずです。 もし移り変わりということがなければ、1粒のとうもろこしは永久に1粒のままであり、実をつけた1本のとうもろこしにはならないのです。 移り変わりというのは、すべての命にとって欠くことのできないものなのです。 移り変わっていくことに心苦しむのではなく、逆にこう言うべきです。 「うつりかわっていくことに感謝しよう」と。 移り変わっていくおかげで全てのものは存在し得るのですから。 このように考えてくると、気分がとても楽になってきます。 こうした考えは空についても当てはまります。 移り変わりと同様に、空なくしてなにものも存在し得ないのです。 空観とは重要な概念なのです。 したがって空についてもこう言うべきです。 「ものごとが空であることに感謝しよう」と。 空はすべての存在の基礎なのです。 空のおかげで命はあるのです。 そして五うん全てこの原則にはずれることはありません。 「理解のこころ」より ~~~~~ ~~~~~~ ~~~~~~~~ 私という命が今、ここにこうして存在しているのはなぜなのか そのことを深く考えていくと 実にさまざまな命の関わりが今の私を成り立たせていることがわかる。 私のもとを尋ねれば、私に影響を与え、支えてくれたものに拡散していくと思う。 私の実体などというものは本当は存在しないのかもしれない。 一瞬、一瞬、変化し続けている私。 私はやはり大きな誤解をしているのだと思う。 私という実体があるはずだという誤解。 私はその誤解に基づいて日々暮らしているのだ。 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします
by jyukushian
| 2008-06-25 11:45
| ティック・ナット・ハン氏
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