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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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私は
ホームページにも少し触れていますが 室町時代から続いていると古文書に書いてある西福寺という寺に 生まれました。 私で17代目の住職ということですが、 歴代の住職のなかに明治時代の住職名が抜けているところをみると おそらく十七代よりもっと多いだろうなと思います。 村の地勢をみても、西福寺を中心に発展してきたことが理解できます。 西福寺という寺は村の中で特別な存在として受け継がれてきたのです。 私が小さいころ、 寺の息子ということで同級生からも村人からも特別な存在として 見られてきました。 特別な存在として見られて育ってきたことの孤独と悲哀。 それを嫌というほど実感して生きてきました。 例えば村に宿親制度というものがあります。 これは 同年輩の青年たちがある家の主人を宿親として年に何度か集まって 酒をのんだりして親交を深める制度なのですが、 私は寺の息子だという理由で参加させてもらえませんでした。 私の知らないところで 同級生たちは宿親のもとで仲間意識を育んでいたのです。 その時の私の孤独感。 おそらく私が、「特別な存在」ということにことさら意識し、忌避するのは そうした生まれ育ちが原因しているだろうと思います。 これは 私の個人的な体験からくる「特別な存在」に対する思いです。 話をもう少し客観的な視点にもってきて 宗教社会学的に寺や僧侶の社会的役割という点から考えると ある地域共同体で寺や住職というのは 死者や魂という、普通の人では関われない存在と唯一関われるということで 特別な存在ということを維持してきたのではないか。 あるいは 普通の人が自らの日常を離れたい清らかな世界に身をおきたいという時のために 寺は機能してきたのではないか。 そういう機能の面を考えると 寺や住職というのは特別な存在でなければならなかったというのは理解できる。東京のお坊さんって、けっこう平気でそういう歴史的立場を利用しているというか、甘んじている人が多いように思える。 特別な存在としての僧侶。 だけど 僕は宗教社会学的な位置に自分を当てはめて僧侶の仕事をしようとは少しも思わない。 僕は もうそんなことはどうでもいいのだ。 今の私にとって「僧侶に演出は必要か」などという質問は もうすでに愚問である。 私の脳裏の中心にあるのは 親鸞聖人の哲学、宗教。 親鸞聖人が最後にたどり着いたナムアミダブツという哲学。 何故、私が存在しているのか? この世とは何か? そのことを 親鸞聖人の哲学をとおして学んでいくだけだ。 私が僧侶でなければならないという必要生もだんだんなくなってきている。 親鸞聖人の哲学を学べる環境さえあれば、もうそれで充分である。 いろんな人を善知識〔指導者)として学んでいきたいだけ。 米沢英雄さんは今の私にとって善知識。 亡くなった小岩の武田寛弘先生の教えをより深く身に染み込ませるためにも 親鸞聖人の教えを死ぬまで学び続けたい それだけ。 それが 甥に対する私の答えです。 ![]() 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします
by jyukushian
| 2008-07-22 00:41
| WEB版 熟柿庵だより
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Comments(1)
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