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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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禅宗の道元禅師も
仏道を習うとは吾我〔自我)をはなれることである、 自己を習うことである、そしてその自己をも忘れることである と語っておられます。 欲と煩悩で一杯の自我というものを離れたところに仏法があると 語っておられます。 だけど 親鸞聖人は 自らの心を探求して 「自我というものを離れることなどできるのだろうか そんなことはできない」と おっしゃっています。 「私に出来ることは 自分が一番かわいいという自我の心を 自我という狭い世界にしか生きられない 人間の悲しさを心の底まで哀しみ それでもなお 自己によって生かされているという真実 を前にして 私は頭を下げることしか出来ない」 とおっしゃっています。 そういう意味で 道元禅師は人間の心を やや楽観的に見ているように思いますし、 親鸞聖人は 人間の心の弱さ、汚さをとことん 見きわめ、ある意味人間の心に対して 絶望されているようにも思えます。 その絶望のなかで 人間にできることは ただ念仏をすることである と語っています。 つづく 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします
by jyukushian
| 2008-08-02 22:00
| WEB版 熟柿庵だより
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Comments(2)
親鸞聖人がある意味人間の心に対して絶望されていたのではないかという点は私も同じように思います。といっても私は親鸞聖人の言葉をいくらも知らないのですが。最近「東大寺戒壇院の広目天」のポスターを眺めています。最初はその目に心を見抜かれているようで怖くなりましたが、まもなくそれは私たちに向けられた悲しみの目だと気づきました。親鸞聖人は深い悲しみの心を人々に向け、私たちはそれに温かく包まれていると感じられるのかもしれません。
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jyukushian at 2008-11-24 14:46
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