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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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パスカルの「パンセ」のなかに
「人間は考える葦である」という有名な言葉がある。 この言葉の本意は 私のうろ覚えの記憶によると 完全無比の宇宙と考える私という対比で語られていたように思う。 完全無比の宇宙と不完全極まりない私の考えとどちらがすぐれているか 明らかに宇宙である。 しかし 宇宙は自らが完全無比であることを知らない。 宇宙が完全無比であることを知っているのは 人間の考えによってである。 従って 私は自分がどれだけ不完全であろうと 宇宙の完全無比さを知っている存在でありたい。 つまり 宇宙のなかに自らを同化させるのではなく どれだけ不完全であっても 人間のほうを私は選ぶ。 たしか そんなふうなことが書いてあったように思う。 米沢氏の本を読んでいて なぜかそんなことを思い出した。 これは 自我と自己とを考える時に少しヒントになるのではないか。 エゴイズムとしての自我と 命の無限の大いなる体系としての自己。 まず 限られた認識力と狭い視野しかもたない自我が どのようにして自己という命の真実のありようを知ることが出来るのか ここが私にとって一番のポイントである。 なぜなら たとえば、仏教では無我ということが説かれている つまり本当は、自分があたまで考えているような自分というものは 存在しないのだ。 自分が存在していると思い込んでいるその自分というものなど 存在しないのだという。 その自我を失くせというのだ。 それはある意味解るような気がする。 では 考えるゆえに我ありというその我れを失くしたとき 命の真実である自己を感じる主体はだれなのか すでに自我の私はいないのであるから 親鸞聖人は 自我は消せないと断言した。 親鸞聖人は自我の心をもって 真実の命の姿である自己を思い その自己を前にして 自我を消せない自らを嘆いたのである。 つづく ![]() 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします
by jyukushian
| 2008-08-03 18:04
| WEB版 熟柿庵だより
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