カテゴリ
以前の記事
2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 05月 2022年 04月 2021年 05月 2021年 02月 2020年 04月 2020年 03月 2019年 06月 more... ライフログ
著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
その他のジャンル
|
今日は雑談しているなかで
私という人間がわからないという話になりました。 自分がどういう人間なのかわからない 自分で自分がわからない けっこう優しい人間のように思うこともあるし そうでないとも言えるし 頑固な人間のようにおもえることもあるし そうでもないとも言えるし のんびりしているようでもあるし そうでもないとも言えるし 自分勝手なようでもあるし そうでもないとも言えるし 要するに自分で自分が見えない 自分がわからない じゃ、他人は自分のことを理解しているかというと 他人はけっこう自分より自分のことが見えるようにも思えるけど 他人に見せている自分というのは自分のほんの一部であるという思いもあるし おそらく他人は私のことを誤解しているだろうとも思う。 自分の親にしても兄弟にしても一心同体ではないのだから それぞれ別の人生を歩いているのだから、 いくら身内であっても、私のことをわかっているとは思えない。 私という人間のことを本当にわかってくれている人はいるのだろうか と考えるととても心細くなる それとも私ってどういう人間なのという疑問がそもそも存在しないのかもしれない、 私はその場、その場でいろいろ経験をして 日々、変化していっている存在なのかもしれないとも思う。 だから私の本質というか 私ってどういう人間なのと聞かれても その日、その日によって答えは変わってくるのかもしれない。 つまり 私という存在の本質はそもそも存在なんかしないのかもしれないとも思う。 そんなふうに考えると とても虚しくなってくる。 私という人間は存在しているはずではないか 私が生まれて、この世で生きていろんな経験をして 考えも昔は昔なりの考えをして生きていて それがいろいろ変化して今はこんなふうに考えて生きているという その私が今こうして生きているという事実を 誰かに認めてほしいと思う。 自分自身ではそのことがわからない。 親も兄弟も友人も本当の私のことを理解はできない だけど 誰かわかってほしいです。 私という人間の心と人生のの歴史と 今現在の私のことを本当に理解してくれる人 私を本当に理解してくれる存在を人間に求めるのは不可能なのかもしれない ![]() 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします
by jyukushian
| 2008-08-26 00:20
| WEB版 熟柿庵だより
|
Comments(2)
![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
ご自分のことがお好きなのはとても素敵なことです。
私は人と接するごとに違う自分が見えてきて 一体本当の私は何者なのだろうと思うことがよくあります。 ある意味、人は自分を映し出してくれる鏡のようです
0
|
ファン申請 |
||