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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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明日からまた、数日彦根です。
帰る前に「理解のこころ」頑張ってもう少しすすめておきます。 前回の続き よく言われる言葉に 「人は塵から生まれ、塵に帰る」というのがあります。 この言葉はあまり心地よいものではありません。 私たちは塵に帰りたいなどとはこれっぽっちも考えてはいないからです。 この「人は塵に帰る」という表現の背景には、 人間はとても価値ある存在で、ちりはまったく価値のないものだという差別的な 意識が働いています。 しかし ちりはそんなに価値のないものなのでしょうか。 実は科学者でさえ、一片の塵がいったいどんなものか、はっきりとはわかっていないのです。それは今なお謎なのです。 ちりの原子を想像してみてください。原子の核のまわりには、一秒間に十八万マイル(28万9620キロメートル)の速さで回っている電子があるのです。それは驚嘆に値します。 ちりに帰るとは、なんと興奮に満ちた冒険なのでしょうか・ それにもかかわらず、私たちは時として、(最後は塵に帰してしまうという)人間とはどんな存在であるのかを理解していると簡単に思い込んでしまうことがあります。 例えば、2,30年一緒に暮らしている人がいるとします。私たちは時として、その人の全てを知ってしまっていると思い込んでしまいます。 たとえば、その人とドライブしている時など、右隣に乗っていたって、その人のことなど考えることもせず、他のことばかり考えてしまいます。 その人に対してもうなんの興味も持ってはいないのです。 なんという傲慢な態度でしょうか。 あなたのとなりに座っている、長年付き合ってきたその人は 本当はとても謎に満ちているのです。 あなたはただその人を知っていると思い込んでいるに過ぎないのです。実際はなにも知ってはいないのです・ 観音菩薩の眼をもってその人を観たとき、 髪の毛一本一本が宇宙そのものであることがわかってきます。その人の髪の毛一本一本が、あなたを真実そのものへ導いてくれる扉なのです。 一片の塵とは、実に天国、浄土の姿そのものなのです。 あなたと一片のちりと、そして全てのものが分かちがたく、つながりとして存在していると理解するならば、 そのことが即ち天国、浄土なのです。 私たちは傲慢さを脱ぎ捨てなければなりません。 「知らないということを知ることは、すでに知り始めていることである」と、中国のことわざにあります。 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします
by jyukushian
| 2008-10-09 23:01
| ティック・ナット・ハン氏
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Comments(2)
Commented
at 2008-10-10 15:05
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
jyukushian at 2008-10-14 21:15
私が死んだ時は
今宵の月さんにお経あげてもらおうかしら(笑) 内向きの考え方ですか。 そんなふうに思ったことがなかったので、考えさせられます。 僕は、最終的には親鸞の教えを学んでいこうと思っている者ですが 唯識はその伏線として位置づけているつもりです。 私の先生の言葉を借りると 親鸞の教えは生命賛歌である、とのことです。 まだ 生命賛歌にまで至っていないのでしょうね
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