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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク カウンセリング研究会【くりのみ】 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 フォロー中のブログ
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本当に早いもので
今日で1月が終わります。 むかし母が 一月は居るといって、 「あれ?まだ1月なの?」というのが1月の長さの感じ 2月は逃げる、といってあっという間にすぎてく 3月は去る、といってこれもあっという間に過ぎていくと、 教えてもらった覚えがあります。 そういえば そんな感じもしました。 しかし、この頃その1月も あっという間に過ぎていきます 年令とともに やるべきことが、少しずつ増えてきて それをこなしているうちに 月日が過ぎていきます。 引退するまで この感覚は増幅していくのでしょう いや 現役を引退しても 益々、年とともに月日が早く過ぎていくのかもしれません 月日の、時間の大切さを思いながらも ぼんやりして何気なくやり過ごす時間も益々増えてきています。 どうすればいいのでしょう(笑) 今日は 30年以上続いている 月例の仏教の勉強会がありました。 テキストは「成唯識論」 脳をねじり鉢巻させて 人間存在について考えて そして 飲み会でした。 「求道会」というその勉強会 難しいけれど 私はその仲間に救われています 私の生涯の大切な仲間です。 ![]() 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします ▲
by jyukushian
| 2009-01-31 23:56
| WEB版 熟柿庵だより
アルコール依存症(アル症)という病気があります。
これにかかると 酒をやめない限り 一生治ることはありません。 死ぬまで、好きな酒をのまないで過ごさなければなりません。 ある意味、癌よりも悲惨な病気です。 癌は、治療によって治る可能性がありますが アル症は脳の病気で、断酒し続けない限り 治ることはありません。 酒をのみ続けていると、死期が早まります。 一般にアル症患者の平均寿命は52歳とのことです。 52(ごじゅうに)、 死ぬなら(ごしゆうに)と冗談交じりに 教えてくれました。 呑み続けていると ある人は凶暴になり ある人は内臓を壊し 社会生活ができなくなり あるいは家庭を壊し そして ついには働けなくなり 生活保護を受け 毎日が酒の誘惑との戦いで 辛い生活を送るのです。 知り合いのSさんは 30代前半にでアル症と診断されました。 最初はその診断を信じたくなかったらしいのですが 3年半前にその事実を受け入れ 断酒を決意されました 今まで、 生きていくことの憂さを 酒を呑むことで晴らしてきたのですから 断酒はSさんにとってこの上なく辛いことです。 眠れなかったり、精神が不安定になったりして 次第に薬に頼るようになりました。 断酒は続けていたのですが 今度は薬物依存症になってしまいました。 そしてなんとか自助グループにも通い 自らを励ましてこられました。 だけど 先日、3年半も断酒して頑張ってきたのに ついに耐えきれなくなったのか アルコールに手をつけてしまいました。 Sさんから電話があって 様子がおかしかったので かけつけました。 駆けつけたものの 私には何もできない。 Sさんの前には缶ビールが何本も転がっていました。 Sさん自身も、もう自分には制御能力がないからと、 精神病院に行くことを自ら決意されました。 Sさんは自助グループに通いながら 何故、自分がこんな病気になったのか 考えてこられました。 確かに直接には酒をのみ続けた結果ではあるのですが 何故、酒を十代から大量にのみ続けてきたのか 単に好きというより 自分の生きてきた境遇というか 自分自身を変えたい、自分の存在を否定したいという 無意識の要求があったのかもしれないと 語ってくれました。 酒でなくても、なんでも良かったのかもしれない いわば 解離性を求めていたのかもしれないと。 自分じゃない何ものかになりたかったと。 確かに、 Sさんの生い立ちは順風ではなかったようです。 私も酒は呑むほうなので Sさんの辛さはひしひしと伝わってきます Sさん 断酒は辛いだろうけれど 長生きしてほしいです ![]() 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします ▲
by jyukushian
| 2009-01-29 21:51
| WEB版 熟柿庵だより
インド入国
ルンビニーから、ヒッチハイクしたり 通りすがりの少年に自転車に乗せてもらったりしながら やっと国境を通過 国境といっても、ささやかにみすぼらしい木製のゲートが 小さな橋の中央にあるだけ。 誰も居ない。 地元の農民達は勝手に国をまたいで行き来している。 国境ってそんなもんなの? だけど 島国育ちの私にとっては 国境を見るのははじめての経験。 ちょっぴり感動してセルフタイマーで記念写真をぱちり。 インドの町までまだ少しありそう・ 途中、小さな村を通り越して歩き続けた。 そして汽車に乗り、ノーガラ駅に到着。 しかし 考えてみれば、パスポートに入国スタンプが押されていない。 このままだと密入国になってしまう。 入国管理事務所は一体何処にあるのだ これはやはりまずいと思い 再び、国境の町まで引き返す。 そして小さな村の小さな小屋が事務所であることがわかった。 事務員は私のバッグをひっくり返し、私のボールペンを使って なにやら書いてやっと入国スタンプを押してくれた スタンプのインクが干からびていて、彼はツバキをスタンプに塗りたくって やっと押してくれた だけど、私のボールペンを返してくれない 「返してくれ」というと 「あなたと私は友達でしょ」などと わけのわからないことを云って そのボールペンをくれという。 なんかもうどうでもよくなって ボールペンはあきらめて 再び駅にもどった。 今は、すでに5時半。 5時発の汽車に間に合うのか 入国の事務員は充分間に合うといった。 30分も過ぎているのに! よく理解できない国だ その日、汽車が到着したのは 夜中の0時だった。 ネパールの人が云っていた 「インドはクレージーだから気をつけろ」 という言葉が身に沁みた ![]() 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします ▲
by jyukushian
| 2009-01-27 20:47
| WEB版 熟柿庵だより
勉強会の後の新年会を兼ねた親睦会で
お酒をのんで少しほろ酔い気分で 「歎異抄にまなぶ会」のご報告をいたします。うぃ~ 今回はひさしぶりの方もお見えになって 賑やかな勉強会になりました。 (いつも賑やかですけど) 今回も歎異抄の第一章の話をさせていただきました。 勉強会の最初にゴーギャンの遺作の題名の 「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、 我々は何処へ行くのか」 という言葉を紹介して そこから話を始めました。 私たちが抱える様々な具体的な問題の 最終的な問いかけが表明されていると 思ったからです。 そして 最後は 「私はなんの為に生きているのか」 という問いに答えること その参考書として「歎異抄」を捉えていくということを 目指しました。 ずいぶん だいそれたテーマです。 最初に 私の先生であった寛弘先生の講義録を 読み上げ、 そして、 「弥陀の誓願不思議」ということの意味を 私なりに解釈して 私の命が成り立つ背景を 「海」という喩えを使ってお話いたしました。 私の命は法の世界という海からやってきて その海に生かされて そしてまた海の世界にもどっていく その海が私の命の背景である そんなお話をいたしました。 固い話はそれぐらいにして さっそく懇親会 会を重ねるごとに、お互いの気心がわかってきて だんだん話が深みに入っていきます 深刻な問題も お酒やウーロン茶の勢いで笑い飛ばしながら 大人の宴会が続きます ![]() ![]() 干し柿 自宅でつくっておられる方が持ってきてくださいました。 ![]() 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします ▲
by jyukushian
| 2009-01-26 00:48
| 行事のご報告
普段の私たちの考えは
善や悪といった概念に縛られています。 私たちは善でありたいと願い 悪を遠ざけたいと願っています。 このような考え方は 善というものが善以外のものによって 成り立っているということ そのことを理解していない、あるいは 忘れているために出てくるものなのです。 たとえば 私が1本のかわいい木の枝を持っているとします もし 何らの差別、あるいは 偏見の意識をもたないで この枝をながめたとすれば この枝はすばらしいものとしてのみ 私の目に映るでしょう しかし この枝を 一方の端が左、もう一方が右と 区別したとたん 苦悩の世界に入りこむのです。 人が 「私は左のほうだけ欲しくて 右はいらない」と 云い始めるや否や ’これは身近によくある話なのです) 苦しみの世界が始まるのです。 右がなければ左もまた存在し得ないのです。 たとえば この枝の右側はいらない、 左だけが欲しいと、 私が云ったとします。 そして この枝の右半分を捨てたとします。 しかし 切り捨てた途端 残った枝の半分は新たな右側として 存在するのです。 左が存在すれば 右もまた存在するのです。 そして、また悩み始め、 また同じことを繰り返すのです。 切っても切っても 右側は消えません 善と悪についても同じことが言えます。 あなたは善のみでいることはできません。 悪を消し去ることは 望み得ないことなのです。 なぜなら 悪が存在するがゆえに 善は存在できるからです。 逆もまたしかりです。 あなたが舞台で主役を演じようとする時 主役に敵対する演技者に 登場してもらわなければなりません それは 主役が主役であるための必要条件なのです。 仏様が仏様としているためには それに敵対するものとしての 悪魔が必要なのです。 仏様は 一枚の紙と同様に空なのであり、 仏様以外の要素によって成り立っているのです。 仏さま以外の要素、 つまり、私たちのことですが 私たちがここに存在していなければ どうして仏様は仏様として 存在し得るでしょうか もし右派の人がいなければ 一体だれが左派といえるでしょうか 私はシュロでできている庵に参詣し、 仏様に心からの礼拝を捧げます。 そのとき 私なりの方法として 次のような短い一節を詠唱するのです。 「礼拝と敬意をささげにくる者 その礼拝と敬意を受ける者 二人はともに空である ゆえに二人のつながりは完璧である」 この一節は 決して不遜な言い回しではありません。 私が空でなかったら 私はいったいどうやって 仏様に礼拝できるでしょうか 仏様が空でなかったら いったいどうやって仏様は 私の礼拝を受けてくれるのでしょうか 仏様と私は分かちがたく関係しあっているのです、 仏さまは わたしのような仏さまでないものによって なりたっているのです。 そして 私もまた私でない者、すなわち 仏様によってなりたっているのです。 礼拝する主体とその対象となる客体は ともに 空なのです。 客体のない主体など 存在し得るはずがありません・ つづく ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 最近、歎異抄の勉強会を始めています。 そのなかに、「弥陀の本願は罪悪深重煩悩熾盛の凡夫をすくわんがためである」という言葉が出てきます。 これは、本節の 右と左の関係、あるいは仏様と汚れた存在としての凡夫の私が必要であるという考えのさんこうとなります。 何故、弥陀の誓願の世界が説かれるのか それは煩悩にさいなまれた私が存在しているからである。 私がきよらかな生き方をしていれば 仏様の世界など必要ではないわけです。 親鸞聖人の人間観です。 ![]() 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします ▲
by jyukushian
| 2009-01-25 00:21
| ティック・ナット・ハン氏
間近に迫ってきてしまいましたが
今月の勉強会は 1月25日夜7時からです お時間がありましたら 初めての方も是非 ご参加ください。 昨日から 激しい下痢に襲われています。 ひどい時には5分おきにトイレに走ります。 原因不明です。 思えば 今月は、忙しい月でした。 まず お葬式もあったりして今月 3回、田舎に往復いたしました。 東京に戻ってきてもお葬式が 重なったりして のんびりできる日が 一日もありませんでした。 要するに まだ正月休みが取れていないです。 下痢はその多忙の所為かもしれません 倦怠感もあります。 部屋もちらかりっぱなしで、荒れ果てています。 ブログを書く気力もありませんでした。 来週から 遅ればせながらの お正月休みをきっと取ります。 ![]() 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします ▲
by jyukushian
| 2009-01-23 00:08
| WEB版 熟柿庵だより
私がお葬式でお勤めしている間
何故だか 後ろで座っている親族の方の 私語とか雑談があまり聞こえてきません。 私語がたまに聞こえてくると 無理に声を張り上げたりして さりげなく注意を促したりするのですが 今まで 殆どありませんでした。 ところが 今回のお葬式で 年配のご親戚の女性の私語が耳に入ってきて そのことが やたらと気になって お経に集中できなくなり ついに、 お経を一瞬中断して、 その女性の方を振り返り、睨みつけてしまいました。 それでもその女性は気がつかず喋り続けておられたので 再びお経を中断して その女性を睨みつけてしまいました。 隣におられた男性が、私の動作に気づき その女性に注意をされて やっと 彼女の私語がやみました。 私の頭の中には お経の最中ぐらい心静かにして 40分ほどの時間を過ごしてもらいたい という考えと 私語ぐらい気にしないで 淡々とお経を唱えればいいじゃないか という二つの考えが混在しています。 だけど 今までわざわざ注意を促すような露骨な行動は とったことはありませんでした。 今回 ついに、わざわざお経を中断してまで 振り向いてまで、行動に移してしまいました。 何故か 少し反省しています。 たぶん 私が年取ってきて、寛容な心が薄れてきたのではないかと 思っているのです。 それでなくても 最近 私の態度を 「上から目線だ」と痛烈に批判されたばかりなのです。 「上から目線」だなんて思ったこともなかったものですから その批判には少々驚いたのですが、 他人の批判は、自分の自己判断より客観的で 的を得ている場合があります。 だんだん私のものの考えや態度が 自己中心的になってきているのかもしれません。 いつも心を柔軟にして 人の批判に耳を傾けること 仏教者に限らず必要なことです。 素敵な年の取り方をしたいと思っています。 ![]() 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします ▲
by jyukushian
| 2009-01-15 19:54
| WEB版 熟柿庵だより
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by jyukushian
| 2009-01-12 22:46
| WEB版 熟柿庵だより
田舎の寺で毎年、年始に
「童の会」があります。 今回は3日にありました。 お勤めの後、住職のお説教があります。 子供たちに話すのは、とても難しいです 童の会 今、正信偈というお経を唱えましたね その中に 「アミダブツ」という言葉が出てきました アミダブツっていったいなんだと思いますか 例えばね 君は お父さんやお母さんと喧嘩することあるでしょ 友達とも喧嘩することあるよね 学校へ行けば いじめっ子がいたりするよね そんな子には近づきたくないなって思うよね あいつはなんで人をいじめてばっかりするのかと 思ったりするよね。 人をいじめるのが好きなのかもしれないなって 思ったりもするよね。 だけどね 例えば喧嘩の話に戻ると 喧嘩した後、気持ちいいですか 勝っても負けても気持ちいいですか 良くないよね できれば喧嘩なんかしたくないと思うよね 喧嘩なんかしなくて 本当はみんなと仲良くしていたいと思うよね。 いじめっ子だって 本当は人をいじめて、ちっともうれしくなんかないんだよ 本当はそのいじめっ子だって、 心の中では みんなと仲良くしたいと思っているんだよ だけど なんかの理由で腹が立つことができて ついつい喧嘩になってしまう。 みんなの中にある心って 喧嘩したり、憎しみあったりしたいなんて 本当は思っていないんだよ 本当は みんなと仲良くしたい そう思っているんだよ それはね 心の中に アミダブツ という仏さまが住んでいて その仏様は みんなと仲良くしてくれているのが いちばんなんだと思っているわけ。 心がいちばん望んでいることなんだ そういうふうに望んでいる仏様を アミダブツって云うんです。 アミダブツは みんなの心の一番奥に いつでも住んでいるんですよ さあ、みんな わかりましたか? ![]() 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします ▲
by jyukushian
| 2009-01-06 20:09
| 行事のご報告
みまさま
あけましておめでとうございます。 彦根は 30日からポチポチ降り始め 元旦の朝はすっかり雪化粧です。 元旦法要のお詣りも いつもの年よりも やや少なめでした。 今年の正月は 息子と二人で過ごしています。 男ふたり。 取り立てて、大掃除をすることもなく、 取り立てて、料理を作ることもなく 淡々と過ぎていきます。 私はといえば 行事の合間をぬって 読みかけのままになっていた 夏目漱石の「こころ」を 先ほど読了いたしました。 お正月そうそうに 「先生とKの自殺」の物語です。 暗い。 だけど、改めて 漱石の小説は面白いなあと思いました。 まさに私小説の原点を見る思いです。 さて 昨年中にお出ししようと思っていた 「熟柿庵だより」 原稿をいつものように 校正者に見てもらったのですが またしても カウンターパンチを食らいました 「自分でちゃんと解っていないような文章を 人に読ませる気ですか」と。 強烈なパンチです。 大きな宿題をだされたまま、 年を越すことになってしまいました。 年明けに校正者と会って とことん、議論しなければなりません。 お互い、納得したところで 「熟柿庵だより」を完成させて みなさんに出したいとおもっております。 ![]() 上記のロゴマークへの クリックをよろしく お願いします ▲
by jyukushian
| 2009-01-02 18:12
| WEB版 熟柿庵だより
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