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著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
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「仏教というのは人生を、命を楽しむためのものです」
タイはそうおっしゃっている。 この言葉に従って このささやかな本を読まれることをおすすめしたい。 そうすれば あなたは 「理解のこころ」の世界に真の意味において 参加されるだろう。 どうかこの本を鐘の音を聞くように読んでいただきたい。 ほんの少し、日々の仕事の手を休め、 心もからだもともに楽な姿勢になってすわり、 命そのものが発するすばらしいこの経典の言葉が あなたのこころに深く響くのを感じていただきたい。 このように あなた自身とこの経典が出会ったなら きっと何度も何度も命の鐘の音を聞くにちがいない。 その時 どうかこの本を少しのあいだ閉じて 命の響きに身をゆだねていただきたい。 あなたは心静かに呼吸をし、 そして微笑を浮かべるだろう こうした経験は私達の多くがそうであるように 最初のうちは難しいかもしれない。 しかし 私は今でも覚えている。 私達が真実の世界に触れずにいた時 タイが励ましてくれた言葉を 「あなたならかならずできますよ」 タイはそう語ってくれたのである。 このようにして あなたの奥深くの命と般若心経の心が通じ合い、 重なり合ってくる。 そのとき 慈悲と平和の世界はもうそんな遠い話しではなくなっているのだ。 ピーター・レビット さて 次回から第一章に入っていきます。 ![]() ブログランキングへ登録しました。 ↑クリックをお願いします。 #
by jyukushian
| 2008-01-31 23:27
| ティック・ナット・ハン氏
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私たちの仏教への理解を豊かにし、かつ深めるために
タイ(先生)は般若心経の真髄について 数回にわたって講義を行われた。 彼の講義はとてもわかりやすいものであった。 彼はこの古代の教えにフレッシュで躍動的な命を吹き込んだのである。 この著書はこうしたところで行われた講義の抜粋の編集である。 庵でともに学んでいるあいだ、 彼は参加者に対して冷静さとそして 輝いた眼をもって常に日々の行動に注目しなさいよ と呼びかけておられた。 食事している時であろうと 仏様の絵を描いている時であろうと 静かに歩いている時であろうと 私たちを支えてくれている地球と私たちの足が いかようであろうと触れ合っているのだ という事実に眼を開いて 常に自分の行動に注目しなさいよと 呼びかけておられた。 この想いをより一層喚起するために 係りの者が定期的に大きな鐘の音を鳴らした。 その鐘の音が響いた時 参加者たちはみんなその場で それぞれの動きを止め、 三度呼吸をして 心の中で次のように唱えるのだった。 「聴きなさい 心静かに。 このすばらしい鐘の音によって わたしは本当の自己に気づき始める」 タイは 「鐘の音はすなわち菩薩であり、 本当の自己を知るという目覚めの助けとなってくれるものです」 と語る。 鐘の音が鳴り、その響きをこころにとめて 私たちは持っていた庭仕事の道具をその場に置く ハンマーを、ペンキのブラシを、 ペンを手から離す。 そして ひととき自己を見つめなおす。 自然な穏やかさをもって呼吸し 微笑むのである。 その微笑の半分は私たち自身に向かってのものであり そしてもう半分は 私の周りにある生きとし生けるものすべて 人々や、木々や、花や 喜びいさんで走り回る子供たちや さらには 私たち自身が抱えている悩み事や苦痛に向けての微笑みである。 このような経験をすることによって 鐘の音は私たちの心に響き そして ついには鐘の音は私たちの心に溶け込んで 一体となるのである。 鐘の音がどれほど人の心の奥深くにまで響いているか これは実に驚くべきことである。 このひとときの経験をへた後、 私たちは日常の生活を再開する。 しかし その日常はこの経験の前とはちょっとちがったものになる。 ふだん見慣れた身の回りのこと一つ一つにあらたなおもいが少し出てくるのだ。 何気ないことが何気ないことでなくなってくる新鮮さ、緊張感といったおもいだろうか。 菩薩のはたらきは、なにも鐘の音によってだけ現れるとは限らない。 いかなるものも自己に目覚める助けになってくれるし 今という瞬間に こころを休めることが出来るのである。 #
by jyukushian
| 2008-01-29 21:49
| ティック・ナット・ハン氏
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昨日の大雪の日、
仕事部屋兼寝室のエアコンが壊れてしまいました。 よりによって一番よく使う部屋のエアコンが。 さっそくいつもの電気屋さんに来てもらって 修理をお願いしたのですが もう寿命とのことで 取り替えることになりました。 今日、その機種のことで夕方5時ごろカタログを持って 説明に来ていただきました。 その電気屋さんが帰ったのは9時半頃でした。 正味、4時間以上。 私たちはとても素敵な時間を過ごすことができました。 最初、エアコンの機種の話から始まったのですが、 どんどん話が広がっていって 電気屋さんが実は音響に凝っていて LPレコードとCDとの違いは 可聴周波数の違いにあるとか アメリカのマランツーというメーカーの アンプで音楽を聴くと驚くほどの音が聞こえてきますよ という話とか 次から次へと興味深い話が展開されていきました。 彼は本当に電気のことが好きなんだなと 話しに引き込まれながら感じました。 話しは次第にプライベートなことにまで及んで 彼が小学生の頃父親が交通事故で亡くなって その時、菩提寺の住職から聞いた話がとても強く印象に残っていて 励まされたとのことでした。 話しながら、少し涙ぐんでおられました 私も自分の生い立ちのことや どういう思いで今僧侶をしているかといったことを話し とても心が通じ合えた想いをいたしました。 素敵な人と出遭え、素敵な4時間を過ごせました ちょっとブログでは表現できないほどに素敵なひとときでした。 今後、彼とは長いお付き合いをしていきたいなと しみじみと思いました。 それにしても どうして一人の客に過ぎない私に あんなに時間をとって 仕事を抜きにして 一生懸命正直に自分を打ち明けてくれたのかしら 人との出遭いって 本当におもしろいです 人間が好きです #
by jyukushian
| 2008-01-25 00:33
| WEB版 熟柿庵だより
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もう8年も続いているでしょうか。
毎晩、寝る時には古今亭志ん生の落語のCDを聴いています。 録音でのこっている話は大半聞いております。 何度も聞いているので だいたい話の内容は覚えているのですが、 何度聞いても味があります。 聞けば聞くほど味が出てきます。 最近は話の落ちに辿りつく前に寝てしまいます。 これだけ何年も聞き続けていると、 志ん生の声を聞くだけで眠くなってきます。 志ん生の声は睡眠薬以上の効果があるようです。 また いろんな意味でとても参考になります。 たとえば、昔の職人さんは、だいたい午前中で仕事を終えたようです。 午後まで仕事をしていると、 「あいつは午後まで仕事をしないと食っていけない野郎だ、だらしないやろうだ」 というセリフが出てきます。 昔の職人さんは、 午後は銭湯にいってのんびりしたり、 1杯ひっかけてその後、吉原に遊びにいったり、 おにぎりを持って近くの川に釣りにいったりと 随分のんびりと一日を楽しんでいたようです。 今から思うと羨ましい限りです。 また、 現代では義務教育でみんな読み書きそろばんが出来るようになっていますが、 昔は職人さんは、文字すら読める必要がなかった。 だから 「大工のあの野郎は字が読めるんだってよ、ふてえ野郎だ、みんなで殴ってやろう」 などといった話まであります。 随分のんびりした話です。 また 枕で話される短い話の中には、 笑ってしまうけどよく考えれば残酷な話もあります。 金持ちの旦那が、二階に上って自分のお札を並べて勘定しながら、 こんなにもある、こんなにもあると言いながら後ろにさがっていって 二階から落っこちて死んじゃった、という話や、 ずぼらな親子が、 コタツに入っていてタバコの火が落ちてコタツの布団に燃え移って 親子で「お前消せ、嫌だよ、面倒くさい、お前消せ、」 などと言い合っているうちに火事になって、 親子そろって焼け死んじゃいまして、などといった話まである。 「ええ、人間てえものは、、、」で始まる志ん生の話は人間の生き様のおもしろさや、 そしてついには生きていることの哀愁まで感じさせてくれる。 今のところ、 志ん生の落語の中で、一番の傑作は 私にとっては「変わり目」という話です。 くるま屋と客のやり取りや、 夫婦の会話がなんとも言えず、笑いとペーソスを感じさせてくれます。 落語は人間勉強にはもってこいの教材であると思います。 #
by jyukushian
| 2008-01-15 00:18
| WEB版 熟柿庵だより
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さて、これから本文に入っていきます。
本書では本文にはいる前に編者であるピーター・レビット氏が序文を載せています。 その序文から紹介していこうと思います。 序 文 般若心経は仏教の根本を説いた経典とされており、 世界中の仏教徒がこの経典を敬い、そして日々読誦している。 ティっク・ナット・ハン氏の この経典に対する解釈は、 云わば釈尊以来2500年の長きにわたって語り継がれてきた 仏教の大いなる歴史のひとコマである。 般若(もしくは完全なる理解の源泉)に関しての経典は、 2000年近くさまざまに解釈され、研究されてきた。 地理的には、まずインドに始まり、中国、ベトナム、韓国、チベット、日本に伝わり、 そしてまた他の多くの国へと広がったのである。 この経典は、ここ100年の間に英語でも学べるようになり、30年ほど前からは、禅僧やチベット僧の瞑想による実践を通して西洋社会にも浸透してきている。 しかしそうは言っても、この教えは西洋の人々に容易に理解できるものではなかった。 1987年の春、 ベトナムの禅僧であり、詩人で平和運動家でもあるティック・ナット・ハン氏は アメリカのさまざまな地域において、仏教の講義と接心をスタートさせたのである。 かれは多くのアメリカ人に積極的な参加を呼びかけ、 そして「アメリカの仏教」のあり方を求めていこうと呼びかけた。 それは外国から輸入された教えとしての仏教ではなくて、 アメリカ人自身の心の中から生まれ出る仏教である。 彼はこう語っている。 「仏教はけっして一つではありません。その教えは幾とおりもあるのです。 仏教がある国に受け入れられる時、 その国はその国に合った新しい仏教のスタイルを形成するのです。 そしてその国で独自に育っていくのです。 その国の仏教はおそらく他の国の仏教とは違ったものになっていくでしょう。 何故なら、仏教は教条主義であってはならず、 仏教の本当の教えを明らかにするには、 その国の文化や国民性に適応していかなければならないからです」 つづく #
by jyukushian
| 2008-01-09 21:58
| ティック・ナット・ハン氏
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