カテゴリ
以前の記事
2023年 09月 2023年 07月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 more... ライフログ
著 書
武田智亨 プロフィール
1951年 滋賀県生まれ。
1970年 本願寺で得度を受ける。大学卒業後、教職を経て1980年 中近東、中東、中国などを1年半にわたり放浪。 現在、浄土真宗 東京・熟柿庵 庵主、彦根・西福寺 住職。 著書に『中国ひとり旅』(連合出版)、『熟柿庵だより』(東京図書出版会)。翻訳書にジェシー・マッキニー著『車椅子の上の心』、ティック・ナット・ハン著『理解のこころ』などがある。 ![]() 東京・熟柿庵ホームページ リンク 逢人舎 ![]() ブログランキングへ 登録しました。 ↑ぜひ、応援クリックを お願いします。 記事ランキング
その他のジャンル
|
年明けに、久しぶりに行きつけの居酒屋Nに行って来ました。
最初、だれも客がいなかったのですが、 途中から馴染みのKさんがやってきました。 哲学好きのサラリーマンのkさん、 呑むほどに話が盛り上がってきて、 彼は今の自分の仕事と、 このまま生きていっていいのだろうかという哲学的な悩みとの間で揺らいでいるようです。 仕事の上の理念と人間存在に関わる問題の理念。 私も自分の理念について考えてしまいました。 私には大きく三つの理念があるようです。 ひとつは 僧侶として、法事や葬儀をやっていって食べていけるかという財政的な問題。 人はパンのみに生きるにあらずという時のパンの問題です。 これもとても大切な問題です。 二つ目は 僧侶として人と接していく中で、その人の悲しみやせつなさをどこまで共有することが出来るか、 厳しい現実の中で互いに生きている者同士が、どこまで互いの想いを分かち合えるかという問題です。 三つ目は 僧侶として、孤独に生きている中で、仏教哲学はどこまで人間存在の本質に迫っているのかを突き詰めて考えていく作業。 人が何を考え、どう生きているのかといったこととは関係なく、但だ但だ人間という生き物の存在論、認識論を考え続けていくという孤独な作業。 私はこの三つの理念の間を行き来しているようです。 この三つの柱が私の全てなのかもしれません。 #
by jyukushian
| 2008-01-09 00:11
| WEB版 熟柿庵だより
|
Comments(0)
みなさん
遅ればせながら あけまして おめでとうございます。 年末年始、どのように過ごされたでしょうか 私は大晦日は寺の本堂のストーブを囲んで 役員さんたちと年越しそば代わりのカップめんをすすりながら 除夜の鐘を突いておりました。 元旦の朝、お勤めが終わって午後、仮眠をとってましたら、 檀家さんが来られて、 気を使ってくださったのか、お寿司の盛り合わせ4人前と 何故かエビフライを20匹ほど持って来てくださいました。 だけどいくら何でも一人では食べきれない。 二日かけてエビフライ15匹食べたら、胃の調子を悪くしました。 苦しい。 二日からもう法事の予定が入っています。 五日までしっかりお仕事して 昨日 東京へ戻って参りました。 これから2~3日 私のささやかな のんびりした正月を迎えようと思います。 さっき、今年の目標というものを作ってみました。 そのひとつ 「言葉遣いに気をつけよう!」 職業柄、言葉遣いには、私なりにとても気を使っていたつもりだったのですが、 昨年いろんな人から私の言葉遣いについて指摘されてしまいました。 気がつかないうちに 何人もの人を傷つけていたようなのです。 反省! #
by jyukushian
| 2008-01-07 22:07
| WEB版 熟柿庵だより
|
Comments(0)
明日、彦根に帰ります。
例によって車での帰省です。 天気予報によると、寒波が押し寄せてきて大雪の気配です。 関が原を越えられるか心配です。 今年最後の仕事は例によって除夜の鐘つきです。 ぼくはありったけの防寒具を着て、 体の中もすこしアルコールで暖めて、いざ出陣です。 昔は、108回つき終わるまでずっと釣鐘堂にいました。数をカウントするためです。 村の人たちが三々五々つきに来ます。 毎年、一回、釣鐘堂の上でしか会わない人もいます。 つきに来た村人たちは好きなだけついて、 みかんやお菓子を貰って帰っていきます。 ぼくは懐中電灯で石段の足元を照らしてあげながら 「よいお年を!」 終わり頃になると決まって、 「紅白、どちらが勝ちました?」の会話 その会話、最近色あせてきました。 終わって帰ると、テレビでは「ゆく年くる年」をやっています。 お酒で体を暖め直して、少し仮眠を取って、 翌朝、元旦の7時からのお勤めに備えます。 ですから、 元旦のお勤めはいつもモウロウとしています。 お経が終わると、 年頭の挨拶を兼ねたお話をしなければなりません。 年明け早々のお説教ですから、なんとか明るい話題にしたいのですが、 なぜかいつも暗い。 そのあと、 檀家さん一人ひとりからの年始の挨拶を受けます。 「旧年中はいろいろお世話になりました。本年もどうぞよろしくお願い致します」 これを何回となく繰り返します。 毎年、こんなふうにして僕の新年は明けるのです。 ですからぼくは 本当を云えば、お正月なんて嫌いなんです。 #
by jyukushian
| 2007-12-29 23:00
| WEB版 熟柿庵だより
|
Comments(0)
ねんまつ、
みんな、最後の挨拶に「よいお年を!」と言って別れる。 みんな願っている。 来年こそ良い年になりますように。 良い年って、なんなの? みんなそれぞれ、良い年の意味はちがっている。 ある人にとっては 仕事がうまくいきますように。 ある人にとっては 病気が少しでも回復しますように。 ある人にとっては 無事、なんとか来年もすごせますように。 ある人にとっては 波かぜの立たない穏やかな日々でありますように。 ある人にとっては 子供が、孫が健やかに育ってくれますように。 ある人にとっては 好きな人に想いが伝わりますように。 「良いお年を」 そう云えば、去年の年末もこんな会話をしていたような。 そして今年一年を過ごしてきた。 今年、願いはとどいただろうか。 来年こそ 願いがとどきますように。 来年がだめだったら その次の年にとどきますように。 そして いつか、いつか きっと きっと願いがとどきますように。 #
by jyukushian
| 2007-12-27 22:32
| WEB版 熟柿庵だより
|
Comments(0)
やっと「唯識ということ」という本を読み終えました。
著者は仏教学者の兵藤一夫という方です。 その本の中に、 興福寺に伝わる言葉として、 「手を打てば 鯉は餌と聞き 鳥は逃げ、女中は茶と聞く猿沢の池」 という文を紹介されていました。 何気なく手を叩いて音を出したら、 猿沢の池の鯉たちは餌だと思って集まってくるし、 鳥は鉄砲だと思って逃げるし、 女中さんはお茶を持って来いという催促だと聞いてしまうという話です。 つまりひとつの事柄が人によって 全く違う受け取り方をしてしまうということです。 この例えはおそらく全てのことに当てはまるのではないでしょうか。 たとえば、わたしが親しみを込めて相手に笑顔の表情をしたとします、 相手はそれを軽蔑の表現として受け取るかもしれません。 馬鹿にされたと受け取るかもしれません。 異性だったら愛情表現だと勘違いして受け取るかもしれません。 その人その人がそれぞれの思いで 勝手な解釈をしてしまうということです。 つまり極端に言えば、 みんな誤解しながら暮らしているともいえるのです。 唯識ではそれを、 すべては意識という心が勝手に世界を解釈して 架空の世界を作り出しているというわけです。 現実にはそんなものはどこにも存在しないと。 そう言われれば、思い当たることがたくさんあります。 私たちは相手の本当の気持ちなど少しも理解していないのかもしれません。 #
by jyukushian
| 2007-12-27 01:05
| WEB版 熟柿庵だより
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||